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多文化共生を考える上で、わたしが見事ポッカリと見逃していたこと 「国家の思惑」

筆者 事務局

以下、個人的な反省。


「多文化共生」に関心を持った理由について。

これまで障害者の人たちとかかわってきたが、従来の取り組み方では変わらないのではないかと思うようになった。


「障害者」というカテゴリーにいては、障害者も支援者たちも、これまでの習慣で

行政・社会vs障害者

強者vs弱者

権力者vs被差別者

という二項対立でしか物事を考えられなくなり、思考停止に陥ってしまう。

中にはQOLが極めて高いのにもかかわらず、「本当に困っていて苦しい立場の障害者の問題」を楯にして、これまでの利権を守ろうとする連中がいる。

「できる」のに「できない」と言う事を恥ずかしいと思わない人たちについては、福祉の問題ではなく「自尊心の欠如」「人としての誇り」の問題であると思っていた。

「守ってもらって当然」という意識から抜け出してもらうには、同じような情報障害という問題を抱える外国人の問題に関心を持つことで、自分たちの問題を客観視してほしかった。

それが外国人の問題に関心を持ったきっかけだった。

ぜひ自分たちの言葉や生活文化に誇りを持ち、Gallaudet大学初の聴覚障害の学長が言ったように聞く以外なら、なんでもできるというような自尊心を持ってほしかった。そうすれば今のような、支援者の善意に依存してもなんとも思わない福祉活動から脱却できるかもしれない、と思った

しかし、この考えは無責任ではないかと思うようになった。

まじめに国際問題、外交問題を考えている人間にとってみれば、私のような人間は「自分たちの身の回りの利益しか考えていない」と見えるのではないかと思う。


多文化共生を考える上で、わたしがポッカリと見逃していたこと

それは

「国家の思惑というものがある」

ということ。


国家の思惑によって、日本の市民運動たとえば「多文化共生推進」などに便乗して、工作活動をする人間が出てくる可能性があることを、まったく自覚していなかった。


日本の多文化共生の活動は、他国の政府からみてどういう意義があるのかを考えなくてはならないと思う。

たとえ日本の障害者の問題が解決しても、肝心の日本国家が傾いてしまい国の土台が崩れては元も子もない。


自国を尊重できない人間が他国を尊重できるはずがないのだ。

自分の国の土台が揺らいでいたら、とてもよそ様のお世話などできるわけがない。


多文化共生関係の活動を人権擁護や善意だけを振りかざして進めるのは、日本国民としては無責任。

民主党政府が「国家を守る」ことを自覚していない以上、1人1人の国民が「他国の国家の思惑」を意識して活動しなくてはならないと思う。

残念ながら、日本は、そういう時代に入ったのだと思う。





※しかし、私の考えは間違いだったようだ。そうして自分らの言葉や生活文化に目覚めた人たちの末路は都会をみると惨憺たるものがある。彼らは反日中国人、韓国人のように「反対応手話、反人工内耳、反健聴者、反難聴者」が使命であり、アイデンティティを維持する手段になってしまっている。ある人はこれを”過渡期なのだから感情的になるのは仕方ない”と言うが、私は残念ながら”過渡期は過ぎた。これが結果なのだ。”と思う。彼らはこれからも反○○を止めないだろう。敵がいないと彼らは窒息してしまうのだから。

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  • Author:H&Dエデュケーショナル事務局
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