スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

西郷南州のすごさ

筆者 事務局

明治政府発足のころ、最大の脅威は不平士族の反乱だった。

もし内乱が長引けば、只でさえ脆弱な新政権のこと、外国列強の脅威に更に晒されることになる。


そのとき全国の不平士族を抑えていたのが陸軍大将の西郷さん。


西郷さんは、後に地元の士族達に担ぎ上げられて明治政府と戦争することになるが

西郷さん自身は戦争の指揮をとることはなかったという。


戊辰の役で連戦連勝だった西郷さん。

もし本当に勝つつもりなら勝てたのではないか。


新政権樹立の最大の功労者が、新政権の最大の脅威を自らの死によって取り去った。

士族と共に死ぬことで、武士の時代を実質的におわらせた西郷さん。

こんなすごい人、世界のどこの歴史をみたって居ないのではないだろうか?
スポンサーサイト

多文化共生を考える上で、わたしが見事ポッカリと見逃していたこと 「国家の思惑」

筆者 事務局

以下、個人的な反省。


「多文化共生」に関心を持った理由について。

これまで障害者の人たちとかかわってきたが、従来の取り組み方では変わらないのではないかと思うようになった。


「障害者」というカテゴリーにいては、障害者も支援者たちも、これまでの習慣で

行政・社会vs障害者

強者vs弱者

権力者vs被差別者

という二項対立でしか物事を考えられなくなり、思考停止に陥ってしまう。

中にはQOLが極めて高いのにもかかわらず、「本当に困っていて苦しい立場の障害者の問題」を楯にして、これまでの利権を守ろうとする連中がいる。

「できる」のに「できない」と言う事を恥ずかしいと思わない人たちについては、福祉の問題ではなく「自尊心の欠如」「人としての誇り」の問題であると思っていた。

「守ってもらって当然」という意識から抜け出してもらうには、同じような情報障害という問題を抱える外国人の問題に関心を持つことで、自分たちの問題を客観視してほしかった。

それが外国人の問題に関心を持ったきっかけだった。

ぜひ自分たちの言葉や生活文化に誇りを持ち、Gallaudet大学初の聴覚障害の学長が言ったように聞く以外なら、なんでもできるというような自尊心を持ってほしかった。そうすれば今のような、支援者の善意に依存してもなんとも思わない福祉活動から脱却できるかもしれない、と思った

しかし、この考えは無責任ではないかと思うようになった。

まじめに国際問題、外交問題を考えている人間にとってみれば、私のような人間は「自分たちの身の回りの利益しか考えていない」と見えるのではないかと思う。


多文化共生を考える上で、わたしがポッカリと見逃していたこと

それは

「国家の思惑というものがある」

ということ。


国家の思惑によって、日本の市民運動たとえば「多文化共生推進」などに便乗して、工作活動をする人間が出てくる可能性があることを、まったく自覚していなかった。


日本の多文化共生の活動は、他国の政府からみてどういう意義があるのかを考えなくてはならないと思う。

たとえ日本の障害者の問題が解決しても、肝心の日本国家が傾いてしまい国の土台が崩れては元も子もない。


自国を尊重できない人間が他国を尊重できるはずがないのだ。

自分の国の土台が揺らいでいたら、とてもよそ様のお世話などできるわけがない。


多文化共生関係の活動を人権擁護や善意だけを振りかざして進めるのは、日本国民としては無責任。

民主党政府が「国家を守る」ことを自覚していない以上、1人1人の国民が「他国の国家の思惑」を意識して活動しなくてはならないと思う。

残念ながら、日本は、そういう時代に入ったのだと思う。





※しかし、私の考えは間違いだったようだ。そうして自分らの言葉や生活文化に目覚めた人たちの末路は都会をみると惨憺たるものがある。彼らは反日中国人、韓国人のように「反対応手話、反人工内耳、反健聴者、反難聴者」が使命であり、アイデンティティを維持する手段になってしまっている。ある人はこれを”過渡期なのだから感情的になるのは仕方ない”と言うが、私は残念ながら”過渡期は過ぎた。これが結果なのだ。”と思う。彼らはこれからも反○○を止めないだろう。敵がいないと彼らは窒息してしまうのだから。

元来政情不安定な国は安定すると、反対に隣国の治安が悪くなる

筆者 事務局

テレビでニュース解説者がよく言うセリフ。

「中国の安定、北朝鮮の安定が重要だ、だから日本は刺激しないほうがいい」

尖閣しかり、南京事件しかり、拉致事件しかり、核問題しかり...


最近、ある北朝鮮に関する本を読んで、必ずしもそうではない事を知った。

もともと政情不安定な国が安定すると、逆に周辺が不安定になる、という話。

北朝鮮の国民の中には、生活のため、中国の商人との闇取引や、国境を越えて中国側の街で強盗を犯す人間が居る。中には軍人もいるそうだ。

中国ー北朝鮮関係が安定しているときは、国民の思想・行動統制が緩やかになるので、国境警備にも賄賂が効きやすくなるので、中国の街に行って悪さができる。

しかし一転、中国ー北朝鮮関係が緊張すると、思想・行動統制が厳しくなるので、国境の管理も厳しくなり、隣国に行く事ができなくなる。

まとめると

中国ー北朝鮮関係が安定⇒中国側の街の治安が悪くなる。

中国ー北朝鮮関係が緊張⇒中国側の街の治安が良くなる。


という話。


なるほどな、と思った。


これは日本と中国の関係も同じようなものではないか?

中国が市場経済を導入するまでは国内が不安定だったために中国国民を国内に押しとどめていた。そのため日本に来ることのできる中国人はわずかだった。

しかし中国が市場経済を導入して徐々に国民が豊かになり政権が安定してくると、国民への統制が緩やかになって人口の流動が激しくなり、国内で稼げない人は外国で稼ごうとする。中には外国で悪さをする人間もいる。

最近の警察庁の統計によると、国内の外国人犯罪の中では中国人による犯罪件数が最も多い。
http://www.npa.go.jp/toukei/keiji35/hanzai2012.htm

これは中国が不安定化して国内統制をがっちりやるようになれば、日本に流入してくる人口も減り日本の治安が改善されるということが、ありうるということ。


なるほど、こういうロジックがあるんですね...気がつかなんだ。

シマを守ることには熱心だが、無責任なことを平気でやる当事者団体とどう付き合ったら良いのか

筆者 事務局


ある社会問題があって、それを解決しようと思ったら、基本的にはその問題を抱えている当事者団体は当然尊重すべきと思います。

しかし...ある当事者団体の活動を学生時代から10数年協力してきましたが、長い間関わっている間に考え方が変わってきました。


「当事者団体を謳っていても、非常識なことを平気で行うことが常態化していたら、反社会的団体と同様に尊重してはならない」

と今では考えています。どんなに歴史があっても、どんなに力があっても、どんなに会員数が多くても、です。

なんか、こう文章にして書くと、あたりマエダのクラッカーだな...、やっぱり文章にして書くと客観的に見れていいな。


特別「当事者主義」というものを信仰してきた私にとって「当事者団体を見捨てなくてはならない」などということは、踏み絵を踏まされたバテレンと同じようなもので、耐え難いものでした。

この結論を受け入れられるようになるまで、10年以上かかりました。バカヤロウだよねぇ、まったく。

受け入れる上で一番の障害となったのは「当事者主義」信仰というよりも、その裏に知らず知らずのうちに溜まっていた「情」だったように思う。

そう「情」。 世の中には、「人を活かす情」と「人を殺す情」というのがあるんだな、きっと。

社会的弱者支援の活動をする上で常に持ってきたこの矜持を曲げなくてはならないというのは、本当に辛い...
人生経験不足ですな、こりゃ。分かる人間には分かると思う。

まぁ、こういう風に書くこと自体、あまりかっこいいことじゃない。偽善者のたわごとと思ってください。


そのように考えるようになったきっかけ↓です

長い間関わっていると、当事者団体の人たちが、何に本当に困っているか、何を問題と思っているのかが分かってきます。

これは他の社会運動にも共通することと思いますが、当事者団体として社会に対して発信していることは、「社会の価値観に照らして言い方を考え、社会に受け入れられやすい言い方」で語られるので、現実はまた違うということが往々にしてあります。

また自分たちが問題意識がないことであっても、上部組織からの命令でやらされているということもあります。

実際に触れ合わなければ分からないことは沢山ある。

私が関係していた当事者団体の多くの支援者達は、支援者同士でツルむということをしていましたが、私はそれでは本当の問題は分からないと思い、あくまで当事者団体の人たちとつるんで彼らの活動に協力していました。

留学した日本人が、外国で日本人とばかり付き合っては勉強にならないので、できるだけ現地の人と一緒にいようとするのと同じことと思う。

彼らが集まって相談している様子を傍らで見る機会がよくありましたが、一番時間をかけて深刻そうに相談していたのは

「理解がなく、常識のない、団体のおエライさんにどう対処するか」

ということでした。そんなことを仕事終わった後、平日の深夜まで話し合うんです。

団体の活動を進める上で、色々なことをお偉いさんに報告・連絡・相談しなくてはならないが、正攻法で話をしても

・おエラいさん達は平気でウソをつく。
・相談をすると、逆に足を引っ張られる、嫌がらせをしてくる。

ので、どうしたらいいかという話。どうやったら後腐れ無く切り抜けられるか、という話が非常に多かったのです。具体的には

活動資金を出すと言ったのに出さなかったり。あとで「出すと言いましたよね」と問い詰めても「そんなことは言っていない」と、平気でウソついたり。
せっかく作った企画について最初はゴーサインを出したのに、途中で理由もなく却下したり。

とまぁ、常識では考えられないことが次から次へと起こっていたのでした。
これ以上書くと、誰の事か特定されてしまうので書きませんが。


あれはホント可愛そうですよ。

真面目にやればやるほどバカをみる、わけですから。


ああいう無責任な人間に振り回されている真面目な人たちをを見ると...なんともいえない気持ちになりました。

ま、彼らは仲間がいるだけまだ良かったのでしょうけど、。

そういう人が自分の親や上司でいたら、普通の人はひねくれますよ。
チャイナの人が外国でマナーが悪いと言われているのは、その人が育った地域に派遣された中共の為政者が、そういう人間だったからではないかなと想像したりする。日本人だって、環境が変われば同じようになってしまうのではないかと思う。

障害ゆえ抱えている問題を解決するために悩むのなら、いくらでも悩んで結構だと思うのですが、常識のない無責任な人間のために悩むのは、時間の無駄以外のナニモンでもありません。

元はといえば、そういうバ○ヤロウを選挙で選んだ当事者団体の会員達がバ○ヤロウなんでしょうけどね。

事情を知らない人からみたら、「自業自得と言えば自業自得」「いやなら辞めたら?」で終わる話なのかも知れませんが
役員には「任期」と「しがらみ」というのがあり、なかなか辞められない。


しかし私は第三者ですから、口を出すことができません。


なんとかならないもんかな、障害を持つ子供たちの将来のためにも、できることはないか、と思っていたのが2000年代の前半でした。


当事者団体というのは、仮にも当事者の問題を代表している団体なワケで、しっかりしてもらわなくてはいけないのに、こんな体たらくでは、解決できるものも解決できず、信頼を失うばかり(事実その団体は、他の障害者団体からは評判が悪かった)

「その団体を尊重しつつ、でも少しずつ変えられる方法はないか」などとクソ真面目に考えていました。アホやのぉ。

「そんなこと、あんたの役割じゃないよ」と言われればその通りだが、彼らに集まる多くの善意を運用しているのが、そういう人間達だと分かったら、何かしないわけにはいかんだろう。

こういう事を知っている筈のベテランの支援者はどう対処してきたのか。

話をきくと、みな「ノータッチ」なのだ。問題があることは知っているのだ。

問題があることが分かっているのに、何もせず、でも回りからは「あんた障害者助けてて偉いわね」と褒められてウキウキして使命感まで感じている...そういったことは私の辞書では「ギゼン」と定義されている。

「例え本人が、変えようと思っても変えるのはなかなか難しいのに、変える気自体ないのに変わるわけがない」
この当たり前のことを受け入れられるようになるまで、しばらく時間がかかるのでした。


そのうち気が向いたら続きを書きます(^^)

人は主張以前に、それがどういう人間から発せられているのかを見る

筆者 事務局

どんなに素晴らしい考えや思想であっても


それを主張する人間が

傲慢であったり

差別をする人間であったり

公私混同を平然とする人間であれば


その主張も当然説得力を失う。



関係者以外からは評判が良くても

関係者からは評判の悪い主張は

「ジェラシー」や「しがらみが絡む」ということもあるが

その主張以前に、その人間性が疑われている。


言っている事と、やっている事が異なれば

説得力を持たないのは当然。

聴覚障害者からすると、手話を使う健聴者は話しにくい?

筆者 事務局

物事は、離れすぎても、近すぎても、見えない。

適度な距離を保てたとき、漸く見えてくる。近頃そんな気分。


最近感じたこと。

あるイベントで手話通訳を依頼されたときのこと。

非番の時間帯に、たまたまそこで知り合った若い聴覚障害の男性と世間話をしていた。手話で話していたと思う。

ところが時間がたつと、相手の手話も口話も中途半端になって、話が分かりにくくなってきた。もともと口話上手な人だったんだけど、口話でもちゃんと言ってくれなくなる。でもそういう人って、彼だけじゃないんだよねぇ。

手話のモノリンガルや、故意に手話に固執する人以外、結構そういう聴覚障害の人多いと思う。口話の方が楽だという人も沢山いるし。

中には「手話を使う健聴者とどう話していいか、分からない」という人もいる。普段手話を使う健聴者と会う機会が少なければ当然そうなるだろう。

なぜ話している途中で、手話も口話も中途半端になるのか、考えてみた。

普段会社勤めをしている彼にとっては、手話のできない健聴者と話をする機会の方が、聴覚障害者と手話で話をする機会よりも、圧倒的に多いはず。普段口話で用を済ましているのだと思う。

きっと話している中で、時々彼が手話と併せて、ちょこっと口話で何か言ったとき、その声に私が反応してしまったのだろう。

すると、いつも話している口話の感覚が戻ってくる。

でもこちらが手話を使うものだから、とりあえず手話を使う。

そうすると話そうとするとき口話で伝えるのか、手話で伝えるのか、どっちもどっちになって、両方中途半端になる。

手話サークルの中には、「聴覚障害者さまに対しては、何が何でも手話を使え!」と罪悪感たっぷりに強迫観念を植えつける所がよくありますが、聴覚障害者も千差万別。相手をみて話しないとね。

手話を使うことを強制される覚えはないし。
世間話をするなら、お互い楽な方法で話したいもの。

通訳場面ではないのだから、コミュニケーション方法に固執する必要はありませんよね。

若い人間が責任者になっているからといって必ずしも良いワケではないこと

筆者 事務局

先日、日本相撲協会の新理事長に元理事長の北の湖親方が再選された。

世間では、否定的な見方が多いように感じる。



最近は若い人間や女性を責任あるポストに置く事が、組織改革の象徴のように見られている。

たしかにそういう面はある。わたしもそう感じていた。

しかし、これは必ずしも良いことばかりではないと最近思う。



人間20代は、先輩達の指導を受け、揉まれながら成長する時期。

しかし組織によっては、この時期に責任のあるポストに置かれて、指導を受ける事もできず叱ってくれる人もいず、その結果

成長の機会を逸してしまう事もあるのだという事を知った。


障害者団体にも似たようなことがある。

周りの無責任なボランティアは、若い人間が役職につくと

「年長者が若い人材を育てようとしている」と好意的にみて拍手喝采だ。

しかし、いい結果を生まないケースを幾つか見てきた。


例えば、誰も役職につきたがらない組織がある。そういう中で意欲のある若い人が出てくる。

「こいつはやる気があるから、役職につけよう」
「若い人材を育てよう」

といって、選挙で役職につけてしまう。


しかし、もともと年長者に育てる意欲も能力もやる気もないから、仕事のやり方も教えてもらえないし、叱咤してくれる人も相談できる人もいない。

そうなるとどうなるか。

天狗様になるのがオチである。

先輩達は指導力はないが、批判・批評だけは、一丁前。

若い人間には「他人に仕事押し付けるだけ押しつけて、自分では何もやらない奴が大きな顔をしている」と見える。


先輩達を反面教師にできる人であればよいが、多くは先輩達と同じやり方に染まっていく。

そのような組織であれば、他のいい組織に入って研鑽を積んで、それから活動を始めた方がいい活動ができる。


特に周りの支援ボランティアが当事者団体の”怠慢”をフォローしているような場合は最悪だ。

そういう団体はこれからも「ボランティアに依存する伝統」を後輩に引き継ぐのだろう。

そんなやり方でいい人間がでてくる筈はない。

スポイルド アダルツをこれ以上増やしてどうする?

偏見の効能 その1

筆者 事務局

「偏見」は「偏って見る」と書く。
物事を素直に見ないで、色眼鏡で見るというのは、確かによくない。

「偏見」を英語ではPrejudice(プレジュディス)という。
Preは「前もって」、judiceは「判断する」の意。
字義から言えば「対象をよく知る前に、前もって判断すること」という意味。

「偏って見る」ことはよくないが「前もって判断すること」は重要なことだと思う。


例えば、最近増えている子供を襲う変質者。

子供の通学路になっている道路には
「不審な人をみたら、交番に連絡をしてください」
という看板がいたるところにある。

「あやしいと感じたら、不審者と思って連絡しろ」と「人を外見で判断しろ」いうわけだから、これも「偏見」と言えば、偏見だといえないこともない。


しかし、これについて
「それはおかしい、人を外見で判断しちゃいけない」
「これは偏見だ」とは誰も言わない。

なぜなら「子供をまもる」という大義があるから。


世の中には、このように何かを守るために前もって判断しなくてはならない事が沢山ある。

「偏見」はよくないが、「前もって判断すること」は必要なことなのだ。


「前もって判断すること」を「偏見」というなら、それは必要な「偏見」。

この不審者のケースは「用心する」というのかも知れない。

日本語の「用心」という言葉は、のどもと過ぎれば熱さ忘れるといった一時的な気の使いようを示す言葉になっているような気がする。

心配するにも資格が必要

筆者 事務局

他人様のことを心配するのにも資格があるように思う。


問題に対処する能力も、余裕もないのに、他人様のことを心配して

「○○のこと、困っていないか?」

などとふって、

それで、相手が漸く勇気を出して話をしたとしても

その事に対して、なにもできないのであれば

相手には「相談しても無駄だった」と、虚しさが残り

声を掛けた方には、罪悪感が残るだけ。


本当に困っている人にとっては

つまるところ「同情するなら金をくれ」なのだ。

金もないのに、いたずらに心配するだけの輩には

「お前一体何なんだ?」と、いいたくもなる。


中には、相手の深刻な問題を、世間話のネタにする人間までいる。

「○○さん、××のことで、悩んでいるようなのよね...」と。

電話で「他の人にはあまり言わないで欲しいんだけど」といいながら、みんなに電話する。

ネタにする人間は、善意で話しているのかもしれないが

ネタにされる側にしてみれば、たまったものじゃない。

「本当に心配してくれるなら、黙ってくれ」が本音と思う。


「心配してくれる人がいるだけ、ありがたいと思え」

という人がいるが、「ありがたい」と思えるだけの余裕がないのだ。

相手の心遣いに気をつかうだけ、疲れが増すばかり。


「人に話すだけでも、楽になるものだ」

という人がいるが、話すだけで楽になる問題であればそれでいいが、それで済まないから問題なのだ。


まずは最低限、自分の生活・家族の生活を守れる人間でなければ

人様の問題について関心を持つ資格はないのだろう。

情報障害の意味するところ

筆者 事務局

「自分達が不利な状況に置かれていることさえも分からない、それが情報障害」

と、言われている。

これは、逆もまた真なりで

「自分達が、他の人よりも恵まれていることさえも分からない、それも情報障害」

ではないか。

恵まれていることをちゃんと伝えることも、情報支援と思う。

【ち】小さな禁止が大きな抑圧(牧衷著「運動論いろは」より)

筆者 事務局

「運動論いろは」(牧衷著 季節社)が面白くて、暇ある毎に読んでいます。

運動論いろは
運動論いろは
posted with amazlet at 10.05.28
牧 衷
季節社
売り上げランキング: 728597



この本に掲載されている、牧さんの「いろは歌」の1つを取り上げて、その感想を記します。


【ち】小さな禁止が大きな抑圧


人は「大きなことを禁止される」ことは、対して抑圧とは思わない。

例えば、殺人、盗み、暴力など。

でも、ささいな事、どうでもいい事を禁止されると、大きな抑圧に感じる。


「ささいな事なんだだから簡単だろ?だから言うこときいてくれよ」というのが言う側の論理。

でも、その些細なことほど禁止されると、言われた方は抑圧に感じる。


なるほどなぁ、その通りですね。


そうやって尾崎豊の「卒業」というような歌がでてきたんだろうなぁ。


事務局まで

名前:
メール:
件名:
本文:

日本語教材サイト
アクセス数
先人の知恵


presented by 地球の名言
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー

プロフィール

H&Dエデュケーショナル事務局

  • Author:H&Dエデュケーショナル事務局
  • 当会は障害や、不登校等の問題、在日外国人の子供達等マイノリティの子供達を支援する非営利組織です。平成13年から活動を開始し、これまで主に重度の聴覚障害を持つ子供達の支援活動を続けて参りました。
ブログ/Webサイト紹介
障害・病気について知る
ブログ内検索
RSSフィード
検索エンジン
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。