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対立するでもなく、手をつなぐでもなく

筆者 事務局

吉田茂元首相の側近、白州次郎は生涯浮気はしなかったらしい。


夫婦円満の秘訣を記者にきかれて



「あまり一緒にいねぇことだな」



と答えたそうな。




対立するでもなく

手をつなぐでもなく


距離をとって

お互い干渉しない。


特別仲良くもないけど、特別悪くもない。


常に一緒にいなければならないパートナーや

お互い引越しのできない国同志の付き合いは

これでいいのではないかと思ったりする。


必ずしも

「手をつないでいない=敵対関係になってしまう」

わけではないのに、不安になって無理に手をつなごうとするから

相手から足元を見られる。


まさに日本の外交姿勢。

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精神的支柱のないマイノリティは、常に敵を必要とする

筆者 事務局

精神的・宗教的バックボーンのないマイノリティのリーダー達は

なぜ自分達がリーダーたる資格があるのか、その根拠を同胞に説明しなくてはならない。

そのために、彼らは常に敵を必要とする。

その敵から同胞を解放したのが自分達であるという所に根拠を置こうとする。


「敵がいないと、内部がまとまらず、権力闘争がおきる」


国家であれ、民族であれ、社会的弱者の組織であれ、人数の多寡問わず、このことは共通しているようだ。

一方的な善意が障害者を殺す

筆者 事務局

支援者の一方的な善意が、障害者との間に共依存の関係を生む。


これが障害者の自立心を阻む。


平時に依存していれば、災害時にも当然依存する。

自分で自分を救う。この当たり前のことをしなくなる。

「自分のことは、できるだけ自分でやる」という意識とプライドを奪ったのはだれか?


支援者の一方的な善意が障害者を殺す。


弱者支援の美学に酔っている人間は、このことになかなか気がつけない。


人は、今現在は五体満足でも、いつ何時自分が障害者になるか分からない。

今晩にでも地震がおきて、タンスが倒れて半身不随になるかもしれないのに。

なのに災害時に自分が100%五体満足で、障害者を助けられる筈だという前提で、災害時の障害者支援を語る人たち...その「自分が100%五体満足でいられる」という確信は、一体どこからくるのか?


「自助」が基本。それがあった上での「共助」でなくては。


印鑑には、なぜ朱(あか)色のインクを使うのか

筆者 事務局

ふと思った。

印を押すとき、なぜ朱(あか)色のインクを使うのか?と。

調べてみた。




印鑑は指の代わり。

朱肉は血の代わり。



本来は、指を切って印を押す。


印を押すということは、本来それくらい覚悟の要る行為。


そう考えたら、印鑑をポンポン押せなくなった。

【読書メモ】佐藤優著『日本国家の真髄』 産経新聞社より 



以下、備忘のためのメモ。文章は自分の言葉でまとめたもの。

○まえがき より

日本の外交官に足りないのは思想である。我が国家のために命を捨てる心構えができていない。

そのため外交官時代に、3つのことを行った。
1.日本の過去のインテリジェンス活動について学ぶ。陸軍中野学校の仕事が役に立った。
2.モサド、CIA、BND,SVRなどの外国のインテリジェンスのプロから死生観、仕事に対して取り組む姿勢を知る。
3.古事記、日本書紀、神皇正統記、太平記などの日本の古典を読むこと。

20世紀前半までの外交は植民地のぶんどり合戦。それが無くなったのは世界が文明化し人道的になったからではなく
植民地を自前で維持するより、独立させて貿易や外交をしたほうがコストダウンできるから。

21世紀は新しい形の帝国主義の時代に入った。

理想とするのは、いつの日か、日本に成文憲法がなくなることである(例)イギリス、イスラエル。


○序章 忘れられたテキスト より

「国体」とは国家を成り立たせる根本原理。

国体は発見するもの。構築はできない。

日本の伝統において「目に見えない憲法」が存在している。この「目に見えない憲法」こそ、わが国体である。

人知によって政治エリートが理想を記した憲法を構築するという発想は、わが国体に合致しない。

人間の理性によって社会や国家を構築できるという発想自体が左翼的思想。

左翼的思想は人間の理性を信頼し、右翼的思想は理性を尊重しながらも人間の理性には限界があると考える。

理性の限界の外においてこそ、人間の真価が現れる。

南北朝時代の北畠親房「神皇正統記」の冒頭で「大大和者神国也(おおやまとはかみのくになり)」と喝破。これこそが本物の右翼。

日本人は「言挙げをしない」ことを美徳とする文化。

南北朝の時代。北朝に偽者の三種の神器が存在し、国体に対する日本人の認識に乱れが生じていたから、北畠が「神皇正統記」を書いた。

人は健康体であれば体のことについてあれこれ言わない。体が病んでいるから体について話をする。国体についても健康なときは何も言う必要はない。
病んでいるから今議論する。

「天皇制」という言葉は、コミンテルンが作った単語。天皇制という単語では、我が国の国体を説明することはできない。
制度は廃止することができるが、国家の根幹である皇統は廃止できない。
ユダヤ・キリスト教の神が制度でないのと同じ。

(P40まで)

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言葉が本来の意味から離れて、意味の範囲が大きくなる例

筆者 事務局

「音痴(おんち)」

もともとは、音に対する感受性が鈍く、歌が下手な様子のこと。

しかし、「音に対する感受性」→「物事に対する感受性」という意味に変化し

「方向音痴」
「機械音痴」

というように使われている。

「音」じゃないのにね。




政府がしっかりして初めて運動も批判も意味を為す、という事

筆者 事務局


以前、JICAの職員とお話したときのこと。

青年海外協力隊員として、バングラディシュに派遣されたときの体験談を伺った。


「バングラディシュは日本とは比較にならないほど福祉も教育も貧弱。理由は国力が弱いから。そのことを知っている国民は、そもそも政府に期待していない。外国からきたNGO団体の方が力があるので、NGOの方が政府よりも頼りにされている。」


というお話があった。


この話をきいて、目が覚める思いがした。

国がしっかりしていて問題を改善できる能力があるという前提があればこそ、社会運動も政府批判も有効なわけで、もし国に能力がなければ、運動も批判も、むなしいものになる。

たとえ政府が要求を飲んでくれたとしても、それを実行できる能力がなければ、絵に描いた餅なわけだから。

社会運動をするに足る、批判をする足る政府を持っているということは、幸せなことなんだということを改めて知った。

手話関係者と要約筆記関係者の決定的な違い

筆者 事務局

手話関係者と要約筆記関係者の決定的な違い。


「自分も聞こえなくなる可能性があるのだ」という当事者意識の有無。


この点については、後者の方がはるかに意識が高いと感じている。

人のために生きれば孤独から解放されるのか?

筆者 事務局

ある有名な人の言葉。

「自分のためにでなく人のために生きようとするとき、その人は、もはや孤独ではない」

を見て思ったこと。


この「孤独ではない」が、宗教的・抽象的な他者との一体感を意味するのだとしたら、それはそうなのかもしれないが、私はそれで満足できるほど人間ができていない。

この言葉、このままでは個人的には受け入れられない。


実際「人のために生きる」という事は、誰かと出会って、その人のために何かを為すこと。

そして自分の行為によって、相手がどうなったのかを知ることになる。

「相手のためにしたこと」が「相手のためになる」場合もあるが、必ずしも「相手のためになっていない」こともある。

むなしい結果、マイナスの結果に終わることもある。

それでも相手とのつながり・絆が残ればいい。

しかし反対に、その相手からムゲに扱われ孤独を味わうことになる、という事も現実としてある。

人のために生きた結果、逆に人とのつながりを失うということが現にある。

恋愛においてしかり、結婚生活しかり、仕事しかり。

孤独な人生から逃れられた筈なのに、孤独に陥ると、多くの人はそこで相手を恨むことになる。

「人のために生きる」ことは、必ずしも「孤独からの解放」を意味しないのだと思う。

「自己の孤独からの解放」のために「人のために生きる」人は、もし周囲から疎外され孤独になるる可能性がでてきたならば、だれか人を犠牲にしてでも、自分を孤独から守ろうとするのだろうと思う。



「人のために生きる」というのは、たとえ孤独になっても、『自分が”価値がある”と信じる事』を大切にするという事なのではないか、と思っている。

自分の信じるところに従って生きて

その結果、人の役に立てば、それで幸い。

たとえ人の役に立たなくても、自分の信条を守ることができれば、それで幸い。

それでいいのではないか。


この名言を私なりに言い換えると

「孤独もまた楽しからずや。人事を尽くし天命を待つのみ」

というところか。

【歴史】西郷隆盛(南州)は”征韓論”に敗れて下野したのではない?

筆者 事務局

先日、国会答弁で仙谷官房長官が、尖閣問題の対応に関する答弁の中で、西郷南州のことについて触れていた。

仙谷さんが、「西郷南州は”征韓論”に敗れて下野した」と発言されていた。

中学校のとき私もそのように教わったような記憶がある。

この夏、鹿児島に行ったとき、西郷さんゆかりのところを回った。

南州神社のそばにある顕彰館の展示物の中だったと思うが、「西郷南州は”征韓論”に敗れて下野したのではない」ことを説明するものがあった。

「征韓論に敗れて下野した」というと、「西郷さんは、朝鮮を武力で征伐しようとしたが政府の中で賛同が得られず敗れて、鹿児島に帰ってしまった」というように受け止められてしまう。

その展示物では「遣韓論」という言葉で説明をしていた。

明治になり、明治政府が朝鮮に日本が王政復古した事を知らせる特使を幾度か送るが、相手にされずなしのつぶてだった。

”武力で朝鮮を征伐すべき”という機運が高まる中、西郷さんは、「位の低い者ではなく参議である自分が行って礼を尽せば、対応してくれるのではないか、そこでまず自分が全権大使になって朝鮮に行く」といった。

しかし閣議で認められたのにも関わらず、岩倉具視の工作によって、なしになったことを西郷さんが不服として下野した。

という説明があった。

これによれば西郷さんは危険を承知で「朝鮮に自ら話しに行く」と、自分から買って出たのだった。

「西郷隆盛は”遣韓論”に敗れて下野した」という方が史実にちかいのではないだろうか?

このあたりは意見が分かれるところだが、近代日本の礎を築いた大人物である西郷さんファンの私としては、「西郷隆盛は”遣韓論”に敗れて下野した」を支持したい。

うちの畑と国防 ~国防を他国に委ねる事の代償を考察~

筆者 事務局

すべてのことは繋がっているんだな、としみじみ思う今日このごろ。

この夏はとても暑かった。畑作業も大変だった。1時間も作業すれば暑さで頭クラクラになった。

いまの時期は大根の間引き作業が中心。これから大豆の収穫作業が待っている。

今年の大豆はわりと出来がいい感じ。

たわわに実った大豆を見ていて、思ったこと。

---

尖閣問題がおこった後、外務大臣の前原さんが米国国務長官さんのヒラリーさんに、尖閣諸島も日米安保の対象地域であることを確認した、という報道があった。

日本の国防は、とことん「アメリカ頼り」なんだなと改めて思った。

そこで、あらためて日米安保について、調べてみた。

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/jyoyaku.html

決まっていることは、つまるところ

「日本が脅威に晒された時には、日米が話し合う」

これしかきまっていないのだ。

もし脅威に晒されても「いつから守るか」という時期については何も決まっていない。

例えば、中国が米国本土と日本を同時に攻めに来た場合。
米国は当然、米国本土の防衛を優先するだろう。

日本に駐留する米軍をハワイや本土に引き上げさせることも十分に考えられる。
そうなれば米国は日本を守るどころではない。

軍事行動を開始する時期についての約束がないということは、日本が中国に占領されてしまっても「安保条約違反」にはならない。

「今米国本土が大変だから、ちょっと待ってくれ。落ち着いたら行く。」と言えばいいのだから。

また、たとえ米軍が日本を守ってくれた場合でも「日本人の生活を脅かすことなく、軍事行動を取ってくれる」
という保証もどこにもない。

最短距離で目的地へ向かうために、米軍の戦車が高速道路を利用して道路がガタガタにされても、日本は何もいえないだろう。

田畑を踏み潰されても何もいえない。

「助けにきてくれた」わけだから。

でももし日本に正式な軍隊があって、自主的に国を守るのであれば、日本人の生活への影響を最小限に抑える形で軍事活動を行ってくれるのではないだろうか?

自分の国を荒らしたくないという気持ちが働くであろうから。

国防を他国に委ねているということは

「日本人の生活を脅かしてもいいから、家族が数人死んでもいいから、どうぞ軍事行動を優先しちゃってください。」

ということなのではないだろうか?


もし今戦争が起こったら、いま畑で収穫を待つ大豆ちゃんが米軍の戦車に踏み潰されても、文句は言えないんだろうなぁ。


冷戦が終結し、米国は共産主義伝播の防波堤でとみなしてきた日本を守る必要がなくなった。

そして米国はテロの脅威から本土を守るために、世界各地に展開していた軍を本土に戻している。

東アジアにおいても、フィリピンから米軍が撤退してしまったのは最近なこと。

米軍駐留のおかげで安定していた東アジアの軍事パワーバランスが崩れ始めている。

中国のヘンな行動はその表れなのだろう。


社会福祉は、国が健全であって初めて成立するもの。国家が不安定なれば社会福祉もなにもあったものじゃない。


戦後、日本がこれまで平和を維持できたのは憲法9条のおかげではなく、冷戦のおかげ、そしてアメリカの核のおかげであることは、明らかなこと。

『軍隊を持たないでも国を守れる方策』があってはじめて「軍隊をもたない」という選択をすることができる。

日本は、国防を他国に依存し『軍隊を持たないでも国を守れる方策』を持たないまま「軍隊をもたないこと」を憲法で決めてしまっている。

他国から攻められやすい状況を自分で作っている。かなりやばい。

「交戦権を放棄している国からの軍事的な脅威はないのだから、日本を攻める国はない」という人がいるが、本当にそうなのだろうか?

なにも相手に脅威を感じるから、侵略をするわけではないだろう。

侵略することで利益があると判断した時点で、侵略の動機は成立する。

侵略する理由も捏造しようと思えば、いくらだって捏造できる。
例えば日本国内で、わざと自国国民を暴殺する、それを日本人のせいにして。
そして自国国民を保護する名目で日本に軍隊を派遣し、そのまま居座る。

素人の私でも、こんなことくらいは想像できる。

障害者の自己実現と野心

筆者 事務局

ボランティアの多くは、障害者が何か社会的な活動していると、活動内容もよく見ずに

「自分と同じように障害を抱える人々のために頑張っているんだ」

と好意的に受け止め、そのような活動を応援することが人としての嗜みと考える。


しかし障害者も1人の人間だということを忘れてはならないと思う。


中には「人の上に立ちたい」という野心をもつ人もいる。

「会社ではとても出世は望めない」

「障害者運動の世界で、人の上に立とう」

と、自分の野心を障害者運動の世界で実現しようという人々がいる。

中には本能的に「人の上に立たなければ気がすまない」という人たちもいる。特に男性に多い。

彼らは「自分は障害者のために活動しているのだ」という看板を立て、その美辞麗句の影で、せっせと縄張り作り・城作りをする。




ボランティアは、こうした事がありえる事をしっかりと認識しなくてはならない。


弱者支援の美学に酔って、この事実を認識しないでいると、弱者権力が乱用されることになる。

ボランティアの中には、障害者のエゴさえも許容することで自分の懐の深さを示そうとする人々がいる。

いつまでも「障害者に優しい」「理解のある人」のままでいたいのだろう。


特別扱いも差別の1つだということを忘れてはならない。

多文化共生関係の活動の中で、懸念している事

筆者 事務局

多文化共生関係の活動の中で、懸念している事。

それは

”多文化共生”という美辞麗句に隠れて利権を狙うグループが出てきたときに、利用されるハメに陥ること。

人間の社会である以上、十分起こりえる。

そういうグループが出てきたときに、利用されないだけの

・哲学
・方策
・能力

が主催者側になければ、多文化共生の活動は危ういと感じている。


たとえば「外国人参政権」については、在住外国人の多くは権利獲得を要求する。

そのために、今後、多文化共生関係の団体を母体にして運動の展開を画策する人々が出てくることも十分考えられる。

アジアには、自国国民の生命・財産よりも政府の利益を優先するような国がある。

おまけに日本はスパイ天国だ。

外国人参政権を足がかりに特定の人々の利益を追い求めるグループが出てきてもおかしくない。


こうした人々に利用されてしまう危険性を念頭において活動をする必要性を感じている。

日本人の側に、問題がおこったときに対処できる能力と方策と、元になる哲学がなければ

多文化共生もあったもんじゃない。

「多文化共生」の理念に対する、一般市民からの賛同も得にくいのではないかと思う。


利用されるだけの価値がない間は何をしていても安心ですが、活動をやる以上は

自分の対応能力を見定め、そして自分の考えを他者に説明できるようにしなくてはならないと思っている。


この点は障害者運動と似たところがあるように思う。

弱者であることを主張することで、既得権益を守ろうとする人々がいる。

日本は弱い者を労わるという文化が昔からあるが、彼らはこれにつけこんでくる。

こうした団体に意見すれば「弱者を差別する者」というレッテルを貼られ、様々な妨害を受ける。

こうした人々に利用されないだけの哲学が、ボランティア側に求められる。

ろうあ者の殺人事件と、聴覚障害児の教育

筆者 事務局

下記の本では、自閉症、知的、聴覚などの障害を持つ犯罪者についての話が載っている。

累犯障害者 (新潮文庫)

この本の中で2005年8月、浜松で起こった殺人事件についての話がある。加害者・被害者ともにろうあ者。不倫の末の殺人。

加害者の会社の人が、こういう証言をしている。

「事件を起こすまで、彼なりにいろいろ考えてなやんだりしたんだろうけど。ろうあ者以外の人には、それを言葉としてきちんと伝えられない。だから考えがとんでもない方向にいってしまう。」(171ページ)

この「考えがとんでもない方向にいってしまう」という話、関係者なら、分かる、という人多いと思います。

私が昔勤めていた会社で経験したこと。

そのろうあ者の男性は、手話もダメ、日本語もダメというダブルリミテッドな状態だった。あるとき仕事で上司からミスを指摘された事をきっかけに、普段のストレスが爆発してしまった。驚いた上司は「同じろうあ者なら、彼の気持ちがわかるはず」と社内にいるほかの部署で働く先輩ろうあ者に会わせたが、同じろう学校卒の、同じろうあ者なのに話が通じない。

先輩のろうあ者曰く「アイツが何を言っているか、オレにはわからん。同じ学校の後輩とは思えない」。

当の本人は私に、ただ「オレは悪くない。悪いのは●●だ」というばかり。

人は周囲と意思疎通ができなくなると、「マイ・ルール」いわゆる思い込みで判断するようになる。「もし私がこうしたら、あの人はどう思うだろうか?」という頭が働かなくなり、上にあるような”考えがとんでもない方向にいってしまう”ことになる。

これまで子供が日本手話を習得する主な場所は、聾学校の子供集団だったが、この場がもうなくなりつつある。そのため今後ますますこういう子が増えていくと思う。

いま国は特別支援教育と言って、障害種別に子供を分けることをしないとしているが、数から言えば障害児の8割以上が知的障害であることから、今ある聾学校は事実上養護学校になることが予想される。

以前保護者に「日本語も手話もダメと言うろうあ者が社会で苦労しているから、日本手話は大切だ。日本手話はろう学校でしか習得できない。」という話をしたところ、「ろう学校は手話を習得するところでなく勉強するところだ」という反対意見がその当時のPTA会長から出た。

今の聴覚障害児教育の第一の目標は「日本語の獲得」。だから「日本語の獲得」という問題はあっても、「手話の言語獲得」という問題は存在しないことになっている。その意味では、保護者の言うことは当を得ている。しかしダブルリミテッド状態のろうあ者がいる以上、現実に即していない。

ろう学校での日本手話習得が困難なら、地域のろう学校卒業者の集団の協力を得るという手がある。しかしここにも問題がある。

ろうの子供達をつなげたくなるような、子供達のロールモデルとなるような人が沢山いる地域であればいい。

しかし、学校を卒業したばかりの女の子に手を出すような、自分の欲望に忠実なチンピラろうあ者が「障害者団体役員」の肩書きで闊歩しているような地域では無理。

つなげた結果問題が起こっては、子供にも保護者にも申し訳が立たない。

そうなれば、あとはろう者の先生の採用を増やしてもらうしかない。

都会のような、ろう児の数がある程度確保できる地域なら手話で教える学校が作れるが、田舎では採算がとれず難しい。資産家の慈善事業でやるなら可能かも知れないが。

それ以前に、こういう問題に対する保護者や当事者の意識がどうかといえば、「高いか低いか」の二者選択で言えば残念ながら低い。高い方もいるが少数派。

意識が低い人が多数派ということは、世間や政治家からみたら、「それは問題はあるかもしれないが、大した問題ではないのだろう」ということになる。

問題がないのに第三者が動いては「それはあんたの思い込みでしょ」ということになり、かつ当事者でもなければ説得力がない。

また「手話」という言葉、かなりの垢がついてしまい、ろう児の手話獲得の問題についても語りにくくなってしまった。

「日本手話」の大切さを、被害者意識に凝り固まり、日本手話と似て非なるものを差別することで主張するようなろうあ者が、マスコミでろうあ者の代弁者として登場するようになった辺りから、ろう学校の手話の問題が一般の人に認知され始めた反面、「日本手話の大切さをPRすること」=「あの差別主義者のお仲間?」と見られるようになり、地方で日本手話の大切さをする人たちに対する信用度が落ちてしまったと感じている。

私も最初は、彼らの怒りにもそれなりの理由があると思い同情を寄せていたが、実際に彼らに会って、あからさまに他の障害者や、自分たちの考えに同調しないろうあ者を差別する様子を間近で見てからは、いたずらに同情するのは間違いだと気づいた。

彼らを支援している通訳者は、「多くのろうあ者がなかなか言えない本音を代弁をしているのだ」と信じているようだが、実際は、マイノリティなら誰もがもっているコンプレックスや被害者意識にいたずらに油を注いでいるだけ、と私は見ている。

活動のエネルギーの源泉が「被害者意識」の場合、常に攻撃対象が必要。共通する敵がいなければ力がでないので、彼らは常に攻撃対象を探している。

一緒になって攻撃するのは、ヤクザのシマ争いに似ているんじゃないかな。仲間意識も目覚めるし。結構楽しいのかも。

「被害者意識」があるから罪悪感無しに言いたい放題・やりたい放題相手を攻撃できる。これも弱者権力の乱用と言えると思う。

「妬み・恨み・憎しみ」で始まった活動は、新たな「妬み・恨み・憎しみ」を生み、やがて自分たちが他者を排除したように、社会から排除されて自滅していく、というのが自然の法則と思う。



守秘義務を守らない手話通訳派遣担当者や当事者団体にどう対処するか?

筆者 事務局

警察官が犯罪を犯した場合、通常より重く罰せられる。

それは、犯した罪に「警察に対する社会的信用を落としめた」という罪が加わる為。


行政の手話通訳派遣担当者や当事者団体担当者は、通訳サービス利用者の利益を代弁、あるいは代表して、守秘義務の遵守を呼びかける立場にある。

しかし、もしその守秘義務の遵守を呼びかける立場にある人たちが、守秘義務を守らず、度々プライバシー漏洩の問題が起こり、そのために利用者が利用しにくい状態になっているとしたら、どうしたらいいのか?

警察に相談したいが、その警察自体が悪さをしていて相談できないというような状況。

確実な証拠がなければ、話し合いをしても水掛け論で終わってしまい、「謂れのない中傷をした」という事になって逆に非難されることになる。

そうなれば今後同じような問題が起こった場合に訴えても説得力がなくなる。


やはり当事者の中から、この問題に正面から向かい合おうという人が出てこなければ、第三者が何を言っても難しいのではないかと思う。

しかしムラ社会では、波風立てれば居場所が無くなるので、誰も向かい合おうとはしない。

当事者が闘う意思がないのに、取り巻きがアクション起こすことはできない。


うーん、システムの視点でみれば、通訳者の養成・登録・派遣の業務が関係者に一極集中してしまっている所に問題があるのではないかな。

この辺は地域によって違うと思いますが。

問題が起こったときに、第三者がチェックに入れる仕組みがない。

行政担当者は、当事者団体とモメると、キャリアに傷がつくのを恐れて何もしないし。


せっかく得られた情報保障の権利も、当事者自らがダメにしてしまう。

こんなことがあるから、むなしさを感じた通訳者は離れていく。



結局、自分たちの運命は自分たちで決めてもらうしかない。

いい制度になるのも、悪い制度になるのも、当事者次第。


たかが草刈り、されど草刈り

筆者 事務局

この間地元のおばばが田んぼの畔の草を刈っていた。

その草を刈る様子をみて、とても感動した。



おばばの手には、全く力が入っていない。

鎌の刃の重みと手首のスナップだけで刈っていく。

まるでカリスマ美容師のよう。


家の庭の草取りと違い、田んぼの畔は広い。

力を入れて刈っているようでは、手が疲れ

また鎌の刃もこぼれてしまう。

それでは広い範囲の草刈りはできない。


「力をいれないこと」


これは畑道具に共通する原理らしい。

力を入れてやっていたら、金属部分が

すぐ曲がったり折れたりしてしまう。

予め刃を研いでおけば、力を入れる必要はなくなる。



準備を怠らずコツを掴んでいれば、無理をする必要はなくなるということか...


そういえば中国の古典にも同じような話があった。

君主が、牛をさばく料理人から人生を教わる話。

荘子:養生主第三
http://blog.goo.ne.jp/kanjikazoku/e/0509e3f8faf1ade1666c412458af41a8


ちなみにうちの鍬は、刃の部分が反ってしまっている。

畑を耕したとき、力を入れすぎたためらしい。


おばばに見習わなきゃ。

「2つの手話の話」について

筆者 事務局

2つの手話、日本手話と日本語対応手話。

「2つの手話がある」という話をする意義について。


その意義は主に二つあると考えてきた。

1つは実際上の問題。手話通訳サービスを利用するのはほとんどが日本手話話者。通訳に必要な第二言語としての手話言語力を習得するために、必要な認識であったこと。
多くの手話指導の現場にこの認識がなかったし、今でもないところが多い。その結果、2つの手話が混同して指導され、多くの手話学習者の努力が水の泡になった。そのことに多くの手話指導者が無頓着な現状がある。

もう1つは、日本手話話者のアイデンティティの問題。言語の否定は、そのまま人格の否定になる。聴覚障害児教育関係者によって作られてきた「手話は言語ではない」「みっともない動物的なもの」という否定的な価値観は、そのまま成人ろう者の自己を見る見方に影響し、ネガティブなセルフイメージを生むことになった。このアイデンティティの問題が、後々社会にでた時、様々な問題を起こす引き金になっている。日本手話が自然言語であること、そして独自の文法を持つ言語であり、日本語の補助手段として使われる日本語対応手話とは異なることを説明することにより、自分の言語に対する自信と誇りを持ってもらう。そのことによりポジティブなセルフイメージを回復してもらいたいという願い。

しかし、一般の人たちに「2つの手話がある」という話をするとき、その意義を上のように説明するのは難がある。もうちょっと一般化しないとな、と思っていた。

先日、日本語教師の先生が、この2つの手話の違いを、日本語ボランティアの人たち対象に、このように説明するのをきいて「なるほど」と思った。


日本語教育の専門家の間では「文法的な難易度」を指標にして、文法構造が優しいものから難しいものへと順に教える教師が多く、日本人が日常生活で使っている表現を軽視しがちな傾向にある。

たとえば「て」形。「て」形は、文の途中に出てきて、動詞と「ください」などの言葉をつなぐものとして指導される。

かく+ください→かい(て)ください
あらう+ください→あらっ(て)ください

しかし日本人は「て」が文末にくる言い方をよく使う。

(依頼、命令の意味で)
「それ、かいて」
「皿、あらって」

『「て」形は、文の途中に出てくるもの』と教えられた外国人は、この表現の意味が分からない。

日常生活の道具として日本語を習得したい外国人にとっては「生きた日本語」を習得したいのに、教師側に、その認識がない。

手話教育でも、同じように日本語の文法に沿った指導がされているところが多く、ろう者が日常生活で使う表現が軽視されている面がある。

という話だった。


つまり「文法中心」「日常会話中心」との対比で、説明する方法。

これだと「日本手話には文法がないの?」という誤解を招く恐れはあるが、「実際に使用されている言葉を尊重する」という説明は、分かりやすい。

やっぱり相手に応じて、適切な説明が必要なんですなぁ。

個人的には、こうした話は、やっぱり当事者にお任せしたい。

人は触れている・見ているものに似る

筆者 事務局

人は環境の動物。触れている・見ているものに似るらしい。

私はとくに影響されやすい性格のよう。


例えば誰かから嫌がらせを受けて、その相手のことで

「なぜあの人は、あんなことを言うのか。私に落ち度があるのかも」

などと熟考していると、いつの間にか、その相手から嫌がらせを受けたときの話し方が伝染ったりしている。

それも「なりたくない」と思っているものほど、伝染りやすいような気がする。


どうやら「なりたい」「なりたくない」「すき」「きらい」に関係なく

心の中で見つめているもの、繰り返し繰り返し考えている人や物に

似てくるようだ。


こんなこともあった。

以前手話通訳の学校に行っていたときの事。

手話を指導する、ろう者の教官にある癖があった。

何かあるたびに、機嫌を損ねたような感じで

つばを吐くように「プッ」と息を吐くのだ。

なんとか手話を習得しようとしていた私は、そのろう者教官を見ている

うちに、いつの間にか、その「プッ」の癖が伝染ってしまった。


あとでフィアンセに「それやめなよ、みっともないよ」と言われるまで気がつかなかった。


影響されやすい性格ということは

悪い人に会えば悪くなり

いい人に会えばよくなるということでもある。

いいんだか、わるいんだか....

マイノリティ支援活動の止めどき 見極め方

筆者 事務局

長期間の支援活動であっても、最終的には支援の必要がなくなることが目的。

辞めるタイミングを見誤ると、共依存の関係を生んでしまい、双方にとってよくない。

では、いつがやめ時か。


それは相手が

「自分探し」
「アイデンティティ・ゲーム※を始める」
※自分が理解されないのは、似て非なる他のマイノリティと混同されている為だと考え、これを排除することで自己を確認し、排除行為の正当性と自分が主張する所のアイデンティティに対して社会の承認を求めようとする)

ようになったときが、やめ時ではないか、と今になって思う。


マスローの人間の欲求ピラミッドを元にして考えると

1. 生理的欲求(physiological need)
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)

「アイデンティティゲーム」は、これでいうと3、4に当たる。

つまりすでに、1と2が満たされている。

「アイデンティティゲーム」を始めるようになったら

支援すべき困っている人は、他にいると考えて

さっさと止めたほうがいい、と思う。




手話通訳者とコミュニティ通訳者の役割 感想その1

2009年5月に手話通訳士協会総会で行われた金城学院大学文学部教授 水野真木子先生の講演会の内容が、協会冊子に掲載されました。

読んだ感想を、何回かにわけて述べます。

---

●通訳者の役割モデルについて

通訳者の役割モデルには
・導管モデル(話をそのまま訳す)
・文化介助者モデル
・擁護者モデル
・介助者、ヘルパー、コミュニケーション促進役など
があるという話。

この話、とても重要だと思っています。

その理由は、通訳者自身が通訳の現場において「自分は何者か、何の役割で、なぜここにいるのか」を認識していないと、過干渉になったり、逆に使えない通訳者になったりで、通訳者として機能しなくなってしまうから、です。

とくに手話通訳者は「通訳者」ではなく「介助者」として認知されているケースが多いので、自分で自分のポジションを主張しないと、通訳業務に支障が出かねません。本当は通訳者対象者がその事を主張するべきところなのですが、そのあたりをしっかり認識できている人は、残念ながらごく少数。

また手話通訳者の多くも、聴覚障害者を「聴覚障害ゆえに援助が必要な人」だと捉えて、自分を「介助者、ヘルパー的役割」だと認識している人が多いと感じています。その背景には、聴覚障害者の多くが「手話通訳者=介護ヘルパー」と同列に見ている事もある。

私が手話通訳をやり始めた当時、地元で手話を教えていたベテランの手話通訳の方が

「手話通訳者の役割は、聴覚障害者の耳になることだ」

とおっしゃってましたが、こうした発言にみられる

「弱者援助の美学」

が、手話通訳の活動の大きな動機になっている節がある。

ウーム....。

コミュニティ通訳をやろうという人も、動機は同じようなものではないでしょうか?
困っている様子をみて、なんとかしようとして、始める。


まぁ他人様のことよりも、まずは自分がどうするか、ですね。

この「場に応じた通訳者の役割モデルの見きわめ」結構難しいです。


例えば、こんなことがありました。

「ここで、それ言っちゃー終わりでしょ」という言葉ありますよね。

それを通訳者対象者が言っちゃった場合に、どう対処するか、です。


【経験談】不利になると分かっている発言をどう通訳するか

以前勤めていた会社に聴覚障害の子が入ってきました。Aさんとします。

新入社員研修会があり、新入社員が仕事に関することを調べて発表するということがありました。
私は総務部からの業務命令で通訳に行きました。

Aさんは資料を配って、用意した原稿を元に、手話で発表しました。

私はその手話を読んで日本語に訳すのですが、Aさんから原稿を貰っていたので、話者の話を見ながら、その原稿を追いかけて読めばいい話でした。

ここまでは良かった。

発表が終わって質疑応答の時間になりました。

ある人が、Aさんが配った資料について質問をしました。

それに対してのAさんの答えに私は驚愕。


Aさん「その資料ちゃんと読んでいないので分かりません」


これをなんと通訳したらよいか。


私は、その研修会での自分の役割について
上の通訳者の役割モデルに当てはめれば
・導管モデル70%+文化介助者モデル30%
と考えていました。

「文化介助者モデル30%」というのは、社員研修を行う人事部は、聴覚障害者への配慮の方法、例えば聴覚障害者や通訳者の座席の位置などをどうすればよいか等については知らないので、アドバイスする必要がありましたし、また、ろう学校卒のAさんには研修会の流れについての話がちゃんと入っていなかったので、経験者の私が説明するなどのことがあった為です。


私は、このとき心を鬼にして、”導管モデル”で通訳しました。

Aさんは、ろう学校で「自分が調べたものを発表する」という経験がなく、「その資料ちゃんと読んでいないので分かりません」という自分のセリフが問題あるものだという認識も、おそらく無かったんだと思います。

通訳者としては合格なんでしょうが、会社の先輩としては心情的にはつらいものがありました。

(こういう経験も、私を聴覚障害児教育の方に向かわせたきっかけになっています)

その晩「自分が内容を把握していない資料は配布してはいけないこと」「あれはいっちゃいけんよ」という話をしようとAさんをラーメン屋に誘いました。

Aさんは「もう終わったこと」と言って、どこ吹く風?といった態度。
チャーシュー麺を普通に食っていました。

「なんだ、反省の色まるでなし。あっさりしすぎ。ラーメンはコッテリ系が好きなくせに。ほっといていいんだか、わるいんだか。ラーメンおごるべきじゃなかったな...」

当時はそんな風に思ってました(^^;


通訳者の役割の話をするとき、当事者からは、両極端のニーズがでてきます。

・干渉はするな。
・何かあれば助けて欲しい。

でも、どこからが干渉で、どこからが援助が必要なのかが、その線引きの仕方が人によって違う。

結果的に、転ばぬ先の杖で、少々干渉していた方が後先無難という話になってしまう。

過干渉の手話通訳者を問題視する聴覚障害者がいますが、その前に、まずは「通訳者は介助者ではない」ことを
身内に啓蒙をしてほしいものです。


手話通訳者を介助者的役割から解放するためには、やはり聴覚障害児教育が重要。

さらに「自分が楽をするために介助者的役割を求め続けるような聴覚障害者」に対しては、そのエゴを通訳者がきちんと見極めないといけない。

日本手話話者に対しては、日本語対応手話ではダメ。上手くかわされて、逃げられますから。

しっかり話し合いをするためには日本手話を話せなくても、しっかり読み取れることが大切。

これに加えて、水野先生の話にもありました”人生経験”が必要。


障害者ぶって同情を買う演技をさせたらプロ級という 悪知恵の働く人には

「聞こえない人たちのために、ちょっとでもお手伝いができれば」

なんていう通訳者は、即刻KOされてしまうでしょう。

弱者権力の濫用を許すものは何か? その6

筆者 事務局

弱者権力の濫用を許してしまう、支援者側の原因。


「支援者が、当事者以上にやる気になってしまうこと。」


正義感の強い支援者が、当事者に対する理不尽な差別

に対して、当事者以上に憤慨してしまうことがある。


そして、当事者がさして闘う意思がないのに、支援者がどんどん闘いを進めてしまう。


しかし支援者は当事者ではないので、最終的な意思決定は当事者にお伺いを立てることになる。


その結果問題が改善されたりすると.....


当事者の中には、自分が当事者であるが故に
・不満を述べること
・支援者に助けて貰うこと
が当然のこと考える人間が、出始め

そして、支援者の中からも
・「自分は弱者を支援している」という社会的認知
・当事者団体からの認知
を得続けるために、当事者をひたすら立てるような人間が出始める。


こうした共依存的な関係が続くと、当事者団体が非常識な事をしても「No」と言えない支援者が増えてくる。

当事者側にしてみると、ひたすら自分達を「弱者だ、弱者だ」と尊重してくれるイエスマン支援者の方が使いやすいから、苦言を呈する支援者は邪魔になる。

そして「弱者を尊重しろ!」「弱者に逆らう奴は、差別者だ!」を錦の御旗にして、弱者権力が濫用されることになる。


当事者の側に立ってみると、支援者に助けてもらって問題が解決したのであれば、自尊心の持ちようがない。

自尊心を維持するには「助けてもらうのは権利だ」と思う以外にないのだろう。


支援活動は

「困ったときは、おたがいさま」の発想から離れて

だれかの生きがいや

居場所となったときに

ゆがみ始めるのだと思う。


頼んでもいないのに

色々動いてくれる人たちがわんさかといては

依存的になるのは自然の理。


どんなに問題が深刻であっても、

第三者が、当事者以上にやる気になってはいけない、と考えています。


第三者が、当事者以上にやる気になっては

第三者の支援が必要ない状況になる事が最終的な目的のはずなのに

支援がいつまでも必要な状況を生んでしまいやすい。

企業や団体からの寄付金を得るための、心構え

筆者 事務局

この不景気で、企業や団体からの寄付金が目減りしている福祉団体が多いと思います。

中には企業や団体に足を運んで、努力している方がいらっしゃると思います。

そこで「スポンサーになってもらうときの話」の進め方のコツについて、少しでもヒントになればと思いまして、以下1つ記します。


コツはただ1つ。

「相手のメリットを考えて、話をすること」


企業や団体とお話をするとき

・問題の困難性
・事業の意義・必要性
・素晴らしさ

を力説して、資金を得ようとお考えの方が多いように思います。

私も以前は、そうしていました。

しかし、あちらの担当者がよほど決定権のある方でない限り、これらのポイントを判断材料にしてお金を出すことは、あまりないという事がわかりました。

団体や企業にとって福祉団体への寄付金というのは、勘定項目では「寄付金」ですが、実際は「広告宣伝費」として考えています。

つまり「その団体に寄付金を出すことによって、どういうメリットがあるか」を担当者は考えて、判断しています。

なので「相手の宣伝活動に協力する」という姿勢で行くと、担当者といい関係が作れるかもしれません。


営業職の人や、個人でビジネスをやってきた人は

「相手の立場にたって、話を進めること」

の大切さが、よく分っていますよねぇ~。


これからも参考にしたいと思っています。

文章の要件(7つ)

筆者 事務局

久しぶりにいい本を見つけた。

「文の上手い、下手」の小手先の文章論ではない、こころで書く文章論。

読んでいて、思わず涙が出た。

山田ズーニー著 伝わる・揺さぶる!文章をかく(PHP新書)より
伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)


●文章の要件(7つ)

1.意見~自分がいいたことは何か?

2.望む結果~だれが、どうなることを目指すのか

3.論点~問題意識がどこに向かっているか

4.読み手~読み手はどんな人か

5.自分の立場~相手から自分はどう見えているか

6.論拠~相手が納得する根拠があるか

7.根本思想~自分の根っこにある想いは何か?



天狗

筆者 事務局

人間、天狗になると...


協調性がなくなり

敬意の念がなくなり

感謝がなくなり

感動がなくなる。

たとえ理想を求めて行った行動であっても...

筆者 事務局

日本手話やろう文化を過激に主張する人たちにも共通点があると感じた一節。

---
(赤軍やオウムの行為について)

たとえ理想を求めて行った行動であっても

社会一般の常識から隔絶すると

閉鎖的空間で

理想ばかりを振り回して

外に向って敵をつくり

内に向かって異物を排除する

全体主義が形成され

屁理屈と非常識が常態となって

単なる殺人を

「総括」や「ポア」という名称で正当化してしまう。

小林よしのり著「天皇論」(小学館) 14ページから

---

「社会は理解してくれない」という思いが過ぎると

社会一般の常識が、自分達への偏見を生み出していると思うようになり

社会一般の常識を否定してしまう。


その反抗的態度を取り続けることが、自分の存在意義となると...

被害者意識に凝り固まった、差別主義者の出来上がり。

ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論

不動産と動産 その2

筆者 事務局

昔録ったビデオテープを整理していたら、NHK「電子立国 日本の自叙伝」があった。

そのなかに米国マイクロソフト社の創業時代の話があった。

ビルゲイツは、自分達が作ったソフトを”売る”ということをしないで

”使用権を売る”ということをしていた。

だから同じ商品を何度も何度も売ることができる。

当時は批判もあったが、斬新なビジネスアイデアだった。


そのビルの掃除をしていたおばさん(ビルのオーナーらしい)の話。

自分達は不動産はを売るときは、1回限り。

でもビルゲイツの会社はソフトは何度も売ることができることに驚いた

という話をしていた。

著作権やソフトウェアのような形のない資産は、”動産”とは言わないらしい。

環境を壊さずして売買を成立させる…情報産業って、怪しいけど、でもエコですよね。

時代にはあってるのかも。

弱者権力の濫用を許すものは何か? その5

筆者 事務局


弱者権力が濫用されるようになった原因。

「必要以上に、当事者をヨイショしてしまう」こと。

それによって、当事者が天狗になる。

「自信の無さ」と、「自信過剰」は紙の裏と表。

支援者をアゴで使うことで、自分が偉くなったと錯覚する。


「必要以上のヨイショ」

やるほうは、社会が当事者の問題に注目するように仕向けるため

また本人が元気になるために、やるのだが、結局がためにならない場合もある。

コミ障害者の場合、周囲の人間との関係性が薄いため

天狗になっている自分に尚更気がつきにくいケースが多いのではと感じている。

弱者権力の濫用を許すものは何か? その4

筆者 事務局


弱者権力の濫用を許してきたもの。


支援者の「情に流される」こと。


支援者が情に流されやすいことを知っている人は

ここを的確につく。以下の記事で書いた人のように。

共に歩む資格
http://hdeducational.blog13.fc2.com/blog-entry-612.html


---
追伸

こうした記事、自分で書いても読んでても暗くなってしまいますが

理不尽な弱者権力の横暴に頭を抱えている人は

きっと心安らぐ記事なのではないかと思う。

後進の人たちが壁にぶつかったときのヒントになればと思います。

誰かを思いやって、仇になったこと

筆者 事務局

Mr.childrenの曲「名もなき詩」



この中に「誰かを思いやりゃ、仇になり....」という歌詞がある。


以前、上越の方で手話講座の手伝いをしていたとき

参加者の若い女性から相談を受けたことがある。

Aさんとします。

こんな話でした。

---

職場に、若い聴覚障害の女性がいた。

会社も周りの社員も、その女性に配慮せず、その女性は困っている様子だった。

Aさんは、困っていることはないかとよく声を掛けていた。

会話ができるようになれればと手話講座にも通った。


その職場には、ボス的存在のおばさんがいた。

そのおばさんに嫌われると、居心地が悪くなり、仕事にも支障がでる。

そのおばさんは誰か特定の人をターゲットにして

苛めるということをしていた。

そのときは、その聴覚障害の女性がターゲットにされていた。



あるとき、休憩時間に、おばさんの言った言葉

「あの子がいると、仕事に支障がでるのよね。ほかの職場にいって欲しいわ」

にカチンときたAさんが

「そこまで言うことはないでしょう!?」

と、おばさんを咎めた。


みんなの前で面子を潰されたおばさんは仕返しに出た。

苛めのターゲットをAさんに向けた。

そして聴覚障害の子を自分のグループに入れて、可愛がるということを始めた。


聴覚障害の子は、自分が苛めのターゲットから外れたことを喜んだ。

そして、おばさんと一緒に、Aさんを苛めるということを始めた。


休憩時間に、聴覚障害の子が、おばさん達に言った言葉

「あの人(Aさん)、私にヘンな手話で話しかけてくる。気持ち悪い。」

Aさんは、この事に大きなショックを受けた。

聴覚障害の子は、自分を守ろうとした為に自分に代わって苛められる事になった人間を

いとも簡単に裏切ったのだった。


Aさんは

アホなオバタリアンの仕打ちには耐えられるが

これまで仲良かった子が
自分を守るために
躊躇無く
いとも簡単に裏切ってきた事実に対して

なかなか気持ちの整理をつけられなかった。

---

私もこれと同じような事を聴覚障害者にされたことがある。


苛められたくないから、悪人に加勢する。

吸血鬼に血を吸われるのが怖いあまりに、自分が吸血鬼になる。


差別を受けてきた人間が、必ずしも他の差別されている人間のことを思いやれるわけではない。


障害があろうが、なかろうが

差別をうけたことがあろうが、なかろうが

人間、強くならねば。

何をもって障害者運動が成功したと言えるのか? その2

筆者 事務局


”障害者”という言葉さえも無意味化して

障害者運動自体が必要でなくなったときが

成功と言えるのではないか。



しかし、人は一度得た権益はそう簡単に手放さない...

日本のバラマキ型福祉の副産物。

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  • 当会は障害や、不登校等の問題、在日外国人の子供達等マイノリティの子供達を支援する非営利組織です。平成13年から活動を開始し、これまで主に重度の聴覚障害を持つ子供達の支援活動を続けて参りました。
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