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”地産地消”が差別語になる時代が到来するかも知れない

筆者 事務局


TPP論議が巷を賑わせている。

貿易の完全自由化、関税自主権の放棄を行うと、どんなことが起こる可能性があるか。


私が心配なことの1つは「食」の安全性の問題。

1つは

”地産地消”という言葉が使えなくなるかも知れない。

「外国産のものを差別する運動であるから」という理由で、自治体や政府が外国企業から訴えられる可能性もないとは言えない。


ほか、食に関して言えば

”遺伝子組み換え食品表示”が、できなくなるかもしれない。

遺伝子組み換え食品を差別している、と訴えられる可能性がないとは言えない。


訴えることで利益が得られる見込みがあれば、あちらさんは必ず訴えてくる。


農は命を支える全ての基礎。

「売れる、売れない」という、金銭の損得の次元だけでは語れない。
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日本の文化「カタチを守る」ということ

筆者 事務局

ふと思った。

「信念や志を貫くこと」これが本当に果たしていいことなのか、自信がなくなっている。
信念や志を貫くために必要な資質が足りないと感じている。

それは、たとえば金属にボール盤で穴をあけるとき

「穴をあける」という「信念や志」があっても
ドリルの刃(資質)がしっかり研がれていないので、摩擦熱で材料がゆがんでしまったような感じ。
おまけに削りカスも散らかり放題。
とりあえず穴は開いたが、役に立たない。
そのようなイメージ。


福祉関係の全国大会に参加したときのこと。

分科会で意見交換があったが違和感を覚えた。
「反対意見が出てくると、感情的になって、相手の意見を封殺しようとする」
人が多いように感じた。
女性が多いこと、そして意見交換に慣れていないということもあるのかもしれないが。


もしかしたら、これは弱者運動に関わる人たちには多いのかも知れない。


なぜ、そうなってしまうのか。

「わたしは弱い人たちのために戦っているのだから正義である。この正義を否定するものは何人たりとも許さない」
と、おもってしまうのではないだろうか?また

「わたしの意見が否定されること」=「弱い人たちが虐げられることを容認してしまうこと」
という頭があるのではないか?

こちらもあなたと、同じような活動をしているのだけど...(笑)女性に多いかな、こういう人。



しかし「弱い人たちのため」などの大義を持っていても、人間の私心(わたくしごころ)は、そう押さえられるものじゃない。

どんなにすばらしい大義を信奉していても

大義に少しずつ私心が加わっていき
大義の中に占める私心の割合が増えていき
やがて、大義は私心を遂げるための言い訳となり
最終的には私心イコール大義になってしまう。


これが真実なら弱者ほど怖い存在はいない。
「わたしのため」が大義として通ってしまう。
「わたしが幸せであることが、即わたしの同胞が幸せである証拠だ」と堂々と言える。
だから、弱者運動は利権獲得のための運動になりがちなんだな。


人間の本質はいつの時代も変わらない。
これは弱者運動でも政治活動でも同じだと思う。

イデオロギーで国を作ろうとした共産主義の国々の中で
次々と粛清が行われて多くの人がなくなったのは、そういうことなのではないか。
考えてみると、ヒトラーやスターリン的な性格の持ち主は、障害者運動をしている人間の中にゴロゴロいる(^ ^)
劣等感がバネになっている人間。


一方、「カタチをまもる」ということは、どういうことなのだろうか?考えてみた。

これは「中身はどうあれ、長年受け継がれてきた伝統や形式を尊重する」ということなのではないかと思う。
その前提には「人間は不完全で、どんなに立派な思想や実績があっても、頼りにならないもの」ということがあるのだと思う。
だから人間が思いついた目に見えないイデオロギーに、大きく拠ることをしない。


上にあげた福祉大会の例は、自分のイデオロギーを貫こうとしたときに、人間が陥りがちになる態度。
きっと私も、このままいけば「そこまで言って委員会」の田島陽子のように「とにかく反撃。負けたら終りだ。」になってしまうのだろうと思う。

では「カタチをまもる」人間は、上にあげた福祉大会でどういう態度を取るのだろうか?考えてみた。

・自分の意見を押し付けようとはしない。
・礼節を守る。
・わかりやすい話を心がける。
・相手の話をきく。
・相手の意見は攻撃しても、誹謗中傷はしない。


なんだ、あたりまえのことじゃねーか。私はできていませんが。

この「カタチをまもる」ということさえちゃんとしていれば
ちょっとくらい、とんでもない思想の人がでてきても、共産主義国のように極端に悪い方向には行かないのではないか。

日本の国は、平和・平等、博愛、人権などのイデオロギーではなく、皇室の血統や、三種の神器のように
「目に見えるもの」
を尊重してきた。

色々な思想の存在は容認しすばらしいものは賞賛はしても、それに全体重を預けることはしなかった。

いくら「本当に大切なものは目には見えない」と星の王子様が言っても
「目には見えない、人間の思いつき」を、究極的には信じなかった。

いまの日本があるのは、この「カタチをまもる」ということを先輩達が連綿とやってきたおかげなのでは、ないか。


これまで自分が否定してきたものを、1つ1つ見直しています。

小学校1年生からやり直すか...。

人に愛されたくて もがく姿

筆者 事務局


人が ひとに愛されたくて もがく姿は

ウザい

みっともない

醜い

特に男は醜い。


でもそれが人の姿なんだな。


アニメ監督の宮崎駿が、今の時代を評してこういってた。


「この時代は、人をかんたんに嫌いになれる時代」



嫌いなら嫌いでいい。

せめて遠くからみまもるくらいすればいいのに

周りと一緒になって差別する輩の頭の中は一体どうなっているのか?

うしろから100tハンマーで殴りたくなる。さっさと成仏してほしい。


人から誤解を受けたり差別されたりしたときには、そりゃもう騒ぎまわるくせに

自分が差別をするのはOKなんて道理が通るわけないだろう。


人間はつくづくどうしようもないと思う。

その罪深さは

救世主が磔にされるほどであり

「悪人なおもて往生をとぐ」なんて言わなくてはならないほどであり。

人間の理性など、さっぱり当てにならん。

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【海外ニュース】なでしこジャパンが見せた真のスポーツマンシップ

海外でこんなニュースが流れていたなんて驚き、ということで紹介。


今朝10/13の日本時間早朝、フランスのサンドニで行われた、男子の日本vsフランスの試合。
なんとか4時に起きれたものの、途中で寝てしまいました(--;
結果を見ようと思い

Googleで「Japan France Soccer」

で検索したら、一番はじめに出てきたのが、なでしこジャパンのロンドンオリンピック準決勝、フランス戦のニュース。大きな写真入り。

A moment of true sportsmanship, as Japan consoles a defeated France

タイトルは、「真のスポーツマンシップの瞬間。日本が負けたフランスを労わる」

こんなニュースがアメリカのニュースサイトに出ていたんですね。

普通は試合終了後は、握手や相手の背中をポンポンとするくらいだが、悔しい涙を流すフランスの選手に日本代表キャプテンの宮間が、じっくり話しこんでいた。

これは...敗者を思いやる、惻隠(そくいん)の心。武士道ではないか。

きっと「あなたたちは強かった、決勝はあなたたちの分まで頑張る」なんて話しているのだろうと思う。


ちなみに、男子の日本vsフランス戦は日本が1-0で勝利。こちらもグッドニュース!

この調子でブラジル戦もいってほしい!

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日本人の持つ「人間は自然の一部」という生命観が、生命科学の倫理性を担保する

筆者 事務局



iPS細胞のiPSとはinduced pluripotent stem cell (人工的に誘導された様々な能力をもった幹細胞)の意味。

「ノーベル生理学賞」というのは、科学者が貰う賞の中では最高ランクの賞だが、この研究の目的は、難病を抱えるマイノリティの人々を救うことが目下の視野に入っている。頑張って欲しい。

山中さんのインタビューの中で印象に残ったのは、「日の丸のご支援がなかったから、こんなすばらしい賞は受賞できなかった」の部分。


この生命科学の分野では、日本人が古くから持っている「人間は自然の一部である」というDNAの奥深くにしみ付いている生命観が、その倫理性を担保するのではないかと思ってきた。

たとえば農業でいえば種子の問題がある。アメリカは、種子を独占するために様々な工作を行っている。

こうした「生命の支配権を握る」ことは日本人の価値観から言えば「神への冒涜」「天をも畏れない」行為だと思う。

今後外国の中にはあの手この手で、iPS細胞技術の独占を図ろうという人々がでてくるのではないかと思う。

iPS細胞に限らないが、今後日本はコアとなる技術は悪い奴等に悪用されないようにブラックボックス化し、その技術を生かして世界に貢献するべきではないかと思う。


iPS細胞について個人的に言えば...

私は子供のときから関節が痛み、さすがに脱臼はしたことはありませんが、力を入れて動かすと痛みが走ります。
きっと60歳くらいになると、あちこち関節がボロボロになって動けなくなるかも知れません。
子供から学生時代まで結構激しい運動していたので軟骨がかなり磨り減っているのかも。

最近は人口関節というのがありますが、できれば自然なものを入れたい。
iPS細胞は、自分の皮膚細胞から作るので、限りなく自分の細胞に近い。
こうしたことにも応用が利く可能性がある、期待してます。


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「栖吉」の意味

「栖吉」という地名がある。

以前からどういう意味なのかな?
と気になっていた。


鴨野長明「方丈記」の有名な冒頭の部分

行く河の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくの如し。


「栖」には、「すみか」「人の住むところ」という意味があるらしい。

すると「栖吉」は「住む」には「吉」なところ。

つまり、「住みよい町」という意味なのかな?



新潟県長岡市栖吉町は幾つかの地区に分かれているが、その中に「風谷地区」という場所がある。

「おー、風の谷か」といつも感動する。

「住みよい、風の谷の町」

いい名前だ。


子供達が「風の谷からきました、○○です」なんて自己紹介したら、かわいいだろうなと、勝手に想像している。

風の谷といえば...感動したなぁ。

対立するでもなく、手をつなぐでもなく

筆者 事務局

吉田茂元首相の側近、白州次郎は生涯浮気はしなかったらしい。


夫婦円満の秘訣を記者にきかれて



「あまり一緒にいねぇことだな」



と答えたそうな。




対立するでもなく

手をつなぐでもなく


距離をとって

お互い干渉しない。


特別仲良くもないけど、特別悪くもない。


常に一緒にいなければならないパートナーや

お互い引越しのできない国同志の付き合いは

これでいいのではないかと思ったりする。


必ずしも

「手をつないでいない=敵対関係になってしまう」

わけではないのに、不安になって無理に手をつなごうとするから

相手から足元を見られる。


まさに日本の外交姿勢。

障害児の教育について政治家と話していて、感じること

筆者 事務局

障害児の教育について、政治家と話していて、感じること。



「障害児の学力が低くて何が問題なのか?低いのは当然だ」という偏見があること。



そのため障害児教育の質が低くても、問題視しない。

ま、保護者にも同じような人間は沢山いるが。

西郷南州のすごさ

筆者 事務局

明治政府発足のころ、最大の脅威は不平士族の反乱だった。

もし内乱が長引けば、只でさえ脆弱な新政権のこと、外国列強の脅威に更に晒されることになる。


そのとき全国の不平士族を抑えていたのが陸軍大将の西郷さん。


西郷さんは、後に地元の士族達に担ぎ上げられて明治政府と戦争することになるが

西郷さん自身は戦争の指揮をとることはなかったという。


戊辰の役で連戦連勝だった西郷さん。

もし本当に勝つつもりなら勝てたのではないか。


新政権樹立の最大の功労者が、新政権の最大の脅威を自らの死によって取り去った。

士族と共に死ぬことで、武士の時代を実質的におわらせた西郷さん。

こんなすごい人、世界のどこの歴史をみたって居ないのではないだろうか?

多文化共生を考える上で、わたしが見事ポッカリと見逃していたこと 「国家の思惑」

筆者 事務局

以下、個人的な反省。


「多文化共生」に関心を持った理由について。

これまで障害者の人たちとかかわってきたが、従来の取り組み方では変わらないのではないかと思うようになった。


「障害者」というカテゴリーにいては、障害者も支援者たちも、これまでの習慣で

行政・社会vs障害者

強者vs弱者

権力者vs被差別者

という二項対立でしか物事を考えられなくなり、思考停止に陥ってしまう。

中にはQOLが極めて高いのにもかかわらず、「本当に困っていて苦しい立場の障害者の問題」を楯にして、これまでの利権を守ろうとする連中がいる。

「できる」のに「できない」と言う事を恥ずかしいと思わない人たちについては、福祉の問題ではなく「自尊心の欠如」「人としての誇り」の問題であると思っていた。

「守ってもらって当然」という意識から抜け出してもらうには、同じような情報障害という問題を抱える外国人の問題に関心を持つことで、自分たちの問題を客観視してほしかった。

それが外国人の問題に関心を持ったきっかけだった。

ぜひ自分たちの言葉や生活文化に誇りを持ち、Gallaudet大学初の聴覚障害の学長が言ったように聞く以外なら、なんでもできるというような自尊心を持ってほしかった。そうすれば今のような、支援者の善意に依存してもなんとも思わない福祉活動から脱却できるかもしれない、と思った

しかし、この考えは無責任ではないかと思うようになった。

まじめに国際問題、外交問題を考えている人間にとってみれば、私のような人間は「自分たちの身の回りの利益しか考えていない」と見えるのではないかと思う。


多文化共生を考える上で、わたしがポッカリと見逃していたこと

それは

「国家の思惑というものがある」

ということ。


国家の思惑によって、日本の市民運動たとえば「多文化共生推進」などに便乗して、工作活動をする人間が出てくる可能性があることを、まったく自覚していなかった。


日本の多文化共生の活動は、他国の政府からみてどういう意義があるのかを考えなくてはならないと思う。

たとえ日本の障害者の問題が解決しても、肝心の日本国家が傾いてしまい国の土台が崩れては元も子もない。


自国を尊重できない人間が他国を尊重できるはずがないのだ。

自分の国の土台が揺らいでいたら、とてもよそ様のお世話などできるわけがない。


多文化共生関係の活動を人権擁護や善意だけを振りかざして進めるのは、日本国民としては無責任。

民主党政府が「国家を守る」ことを自覚していない以上、1人1人の国民が「他国の国家の思惑」を意識して活動しなくてはならないと思う。

残念ながら、日本は、そういう時代に入ったのだと思う。





※しかし、私の考えは間違いだったようだ。そうして自分らの言葉や生活文化に目覚めた人たちの末路は都会をみると惨憺たるものがある。彼らは反日中国人、韓国人のように「反対応手話、反人工内耳、反健聴者、反難聴者」が使命であり、アイデンティティを維持する手段になってしまっている。ある人はこれを”過渡期なのだから感情的になるのは仕方ない”と言うが、私は残念ながら”過渡期は過ぎた。これが結果なのだ。”と思う。彼らはこれからも反○○を止めないだろう。敵がいないと彼らは窒息してしまうのだから。

元来政情不安定な国は安定すると、反対に隣国の治安が悪くなる

筆者 事務局

テレビでニュース解説者がよく言うセリフ。

「中国の安定、北朝鮮の安定が重要だ、だから日本は刺激しないほうがいい」

尖閣しかり、南京事件しかり、拉致事件しかり、核問題しかり...


最近、ある北朝鮮に関する本を読んで、必ずしもそうではない事を知った。

もともと政情不安定な国が安定すると、逆に周辺が不安定になる、という話。

北朝鮮の国民の中には、生活のため、中国の商人との闇取引や、国境を越えて中国側の街で強盗を犯す人間が居る。中には軍人もいるそうだ。

中国ー北朝鮮関係が安定しているときは、国民の思想・行動統制が緩やかになるので、国境警備にも賄賂が効きやすくなるので、中国の街に行って悪さができる。

しかし一転、中国ー北朝鮮関係が緊張すると、思想・行動統制が厳しくなるので、国境の管理も厳しくなり、隣国に行く事ができなくなる。

まとめると

中国ー北朝鮮関係が安定⇒中国側の街の治安が悪くなる。

中国ー北朝鮮関係が緊張⇒中国側の街の治安が良くなる。


という話。


なるほどな、と思った。


これは日本と中国の関係も同じようなものではないか?

中国が市場経済を導入するまでは国内が不安定だったために中国国民を国内に押しとどめていた。そのため日本に来ることのできる中国人はわずかだった。

しかし中国が市場経済を導入して徐々に国民が豊かになり政権が安定してくると、国民への統制が緩やかになって人口の流動が激しくなり、国内で稼げない人は外国で稼ごうとする。中には外国で悪さをする人間もいる。

最近の警察庁の統計によると、国内の外国人犯罪の中では中国人による犯罪件数が最も多い。
http://www.npa.go.jp/toukei/keiji35/hanzai2012.htm

これは中国が不安定化して国内統制をがっちりやるようになれば、日本に流入してくる人口も減り日本の治安が改善されるということが、ありうるということ。


なるほど、こういうロジックがあるんですね...気がつかなんだ。

シマを守ることには熱心だが、無責任なことを平気でやる当事者団体とどう付き合ったら良いのか

筆者 事務局


ある社会問題があって、それを解決しようと思ったら、基本的にはその問題を抱えている当事者団体は当然尊重すべきと思います。

しかし...ある当事者団体の活動を学生時代から10数年協力してきましたが、長い間関わっている間に考え方が変わってきました。


「当事者団体を謳っていても、非常識なことを平気で行うことが常態化していたら、反社会的団体と同様に尊重してはならない」

と今では考えています。どんなに歴史があっても、どんなに力があっても、どんなに会員数が多くても、です。

なんか、こう文章にして書くと、あたりマエダのクラッカーだな...、やっぱり文章にして書くと客観的に見れていいな。


特別「当事者主義」というものを信仰してきた私にとって「当事者団体を見捨てなくてはならない」などということは、踏み絵を踏まされたバテレンと同じようなもので、耐え難いものでした。

この結論を受け入れられるようになるまで、10年以上かかりました。バカヤロウだよねぇ、まったく。

受け入れる上で一番の障害となったのは「当事者主義」信仰というよりも、その裏に知らず知らずのうちに溜まっていた「情」だったように思う。

そう「情」。 世の中には、「人を活かす情」と「人を殺す情」というのがあるんだな、きっと。

社会的弱者支援の活動をする上で常に持ってきたこの矜持を曲げなくてはならないというのは、本当に辛い...
人生経験不足ですな、こりゃ。分かる人間には分かると思う。

まぁ、こういう風に書くこと自体、あまりかっこいいことじゃない。偽善者のたわごとと思ってください。


そのように考えるようになったきっかけ↓です

長い間関わっていると、当事者団体の人たちが、何に本当に困っているか、何を問題と思っているのかが分かってきます。

これは他の社会運動にも共通することと思いますが、当事者団体として社会に対して発信していることは、「社会の価値観に照らして言い方を考え、社会に受け入れられやすい言い方」で語られるので、現実はまた違うということが往々にしてあります。

また自分たちが問題意識がないことであっても、上部組織からの命令でやらされているということもあります。

実際に触れ合わなければ分からないことは沢山ある。

私が関係していた当事者団体の多くの支援者達は、支援者同士でツルむということをしていましたが、私はそれでは本当の問題は分からないと思い、あくまで当事者団体の人たちとつるんで彼らの活動に協力していました。

留学した日本人が、外国で日本人とばかり付き合っては勉強にならないので、できるだけ現地の人と一緒にいようとするのと同じことと思う。

彼らが集まって相談している様子を傍らで見る機会がよくありましたが、一番時間をかけて深刻そうに相談していたのは

「理解がなく、常識のない、団体のおエライさんにどう対処するか」

ということでした。そんなことを仕事終わった後、平日の深夜まで話し合うんです。

団体の活動を進める上で、色々なことをお偉いさんに報告・連絡・相談しなくてはならないが、正攻法で話をしても

・おエラいさん達は平気でウソをつく。
・相談をすると、逆に足を引っ張られる、嫌がらせをしてくる。

ので、どうしたらいいかという話。どうやったら後腐れ無く切り抜けられるか、という話が非常に多かったのです。具体的には

活動資金を出すと言ったのに出さなかったり。あとで「出すと言いましたよね」と問い詰めても「そんなことは言っていない」と、平気でウソついたり。
せっかく作った企画について最初はゴーサインを出したのに、途中で理由もなく却下したり。

とまぁ、常識では考えられないことが次から次へと起こっていたのでした。
これ以上書くと、誰の事か特定されてしまうので書きませんが。


あれはホント可愛そうですよ。

真面目にやればやるほどバカをみる、わけですから。


ああいう無責任な人間に振り回されている真面目な人たちをを見ると...なんともいえない気持ちになりました。

ま、彼らは仲間がいるだけまだ良かったのでしょうけど、。

そういう人が自分の親や上司でいたら、普通の人はひねくれますよ。
チャイナの人が外国でマナーが悪いと言われているのは、その人が育った地域に派遣された中共の為政者が、そういう人間だったからではないかなと想像したりする。日本人だって、環境が変われば同じようになってしまうのではないかと思う。

障害ゆえ抱えている問題を解決するために悩むのなら、いくらでも悩んで結構だと思うのですが、常識のない無責任な人間のために悩むのは、時間の無駄以外のナニモンでもありません。

元はといえば、そういうバ○ヤロウを選挙で選んだ当事者団体の会員達がバ○ヤロウなんでしょうけどね。

事情を知らない人からみたら、「自業自得と言えば自業自得」「いやなら辞めたら?」で終わる話なのかも知れませんが
役員には「任期」と「しがらみ」というのがあり、なかなか辞められない。


しかし私は第三者ですから、口を出すことができません。


なんとかならないもんかな、障害を持つ子供たちの将来のためにも、できることはないか、と思っていたのが2000年代の前半でした。


当事者団体というのは、仮にも当事者の問題を代表している団体なワケで、しっかりしてもらわなくてはいけないのに、こんな体たらくでは、解決できるものも解決できず、信頼を失うばかり(事実その団体は、他の障害者団体からは評判が悪かった)

「その団体を尊重しつつ、でも少しずつ変えられる方法はないか」などとクソ真面目に考えていました。アホやのぉ。

「そんなこと、あんたの役割じゃないよ」と言われればその通りだが、彼らに集まる多くの善意を運用しているのが、そういう人間達だと分かったら、何かしないわけにはいかんだろう。

こういう事を知っている筈のベテランの支援者はどう対処してきたのか。

話をきくと、みな「ノータッチ」なのだ。問題があることは知っているのだ。

問題があることが分かっているのに、何もせず、でも回りからは「あんた障害者助けてて偉いわね」と褒められてウキウキして使命感まで感じている...そういったことは私の辞書では「ギゼン」と定義されている。

「例え本人が、変えようと思っても変えるのはなかなか難しいのに、変える気自体ないのに変わるわけがない」
この当たり前のことを受け入れられるようになるまで、しばらく時間がかかるのでした。


そのうち気が向いたら続きを書きます(^^)

本物の指導者と偽物の指導者

本物の指導者は新たな指導者を育てるが

偽物の指導者は、己が徒党の拡大に終始する。

敬称のルール 「ちゃん」付けで呼ばれているのは、愛されているからかもyo

筆者 事務局

あるとき、ろう者の手話教師がなにやら怒っていた。

普段会っている手話通訳者が、通訳者同士の会話の中で、自分のことを「名前+ちゃん」で呼んでいるらしいことをきいて、頭にきたらしい。

どうやら「自分を子ども扱いしている。バカにしている。」と思ったようだ。


あぁ、こういうところにも、誤解があるなと感じた。

比較的日本語リテラシーの高い人だったが、それでも健聴者の話し言葉までは理解が及ばないのは、耳が聞こえない訳だから、当然なのかも知れない。

この「ちゃん」付けについて、ちょっと解説をしたいと思う。


たしかに、子どものことを言うときには、男子なら「~くん」、女子なら「~ちゃん」と付けることが多いと思う。

しかし、今回のケースでその通訳者達が「ちゃん」付けで呼ぶのは、そのろう者に親愛の情を感じているからであって、決して子ども扱いしているわけではないことは、私にはすぐに分かった。

もし嫌いだったり、親愛の情が薄ければ、「~さん」「~先生」と呼んでいるはずだった。


この「ちゃん」をつけるルールというか心理は、人によっても違うし、人間関係によっても異なると思う。

自分自身のことを振り返ると...

学生時代、自信が無さ過ぎるのか、ありすぎるのか分からないが、自分をやたら大きく見せようとする先生がいて、その癖やることが子どもっぽいものだから、学生から見ても「かわいい」というか「大人気ない」というか...

その先生の前では学生は皆「○○先生」と呼んでいたが、学生同志の会話の中では「~ちゃん」で呼んでいた。

「ちゃん」付けで呼んでいた理由、それは学生が、その先生から何かしら愛嬌を感じていたんだと思う。

もし本当に嫌いであれば、もっと酷いあだ名で呼ばれていた筈。


どういう意味で「ちゃん」がつくのか、それはケースバイケースだし、そのことを健聴者にきいても、きっとチャンとは答えてはくれないだろう。

もし「ちゃん」付けで呼ばれて、頭にカーッときたならば、次のことを思い出して欲しい。


日本ロック界のカリスマ「矢沢永吉」は、ファンから「永ちゃん」と呼ばれている。この「ちゃん」は、親愛の情とともに、尊敬の念も込められている。


もし自分が「ちゃん」付けで呼ばれていたら

・愛されている
・尊敬されている

と思っていれば、腹も立たず人間幸せだ。

「手話が怖い」

筆者 事務局

震災時に聴覚障害者の支援活動をする中で、様々な聴覚障害の人とあった。

そのときに経験したこと。


聴覚障害者、特にろう学校卒業者の中には、聴覚障害者との接触を極端に嫌う人がいる。それも相当数いる。

ろう学校時代に、他の生徒からイジメられたトラウマが残っているのではないかと思う。

そういう人は、手話を使う人間を極力避ける。


相手がろう学校とは縁のない健聴者であっても、手話を使う人であれば、同じように避ける。


手話を使う人間達の世間は狭いので、誰が「あの嫌な奴ら」と繋がっているか分からないから。


自分のことが「あの嫌な奴ら」に伝わって、ああだこうだ言われるのは我慢ならないのだろう。


たとえ自分が手話を使う聴覚障害者であっても、手話通訳者よりも、普通の行政の職員や、ヘルパーさんなど「あの嫌な奴ら」と関わりのない人の方が安心して付き合えるようだ。


そういう人と出会うと「私はあの人たちとは、全く関係ないから、安心してください」と言いたくなる。


必ずしも、手話を使えば、ろう者との距離が縮まるワケではない。逆に距離が広がる場合もある。

人は主張以前に、それがどういう人間から発せられているのかを見る

筆者 事務局

どんなに素晴らしい考えや思想であっても


それを主張する人間が

傲慢であったり

差別をする人間であったり

公私混同を平然とする人間であれば


その主張も当然説得力を失う。



関係者以外からは評判が良くても

関係者からは評判の悪い主張は

「ジェラシー」や「しがらみが絡む」ということもあるが

その主張以前に、その人間性が疑われている。


言っている事と、やっている事が異なれば

説得力を持たないのは当然。

聴覚障害者からすると、手話を使う健聴者は話しにくい?

筆者 事務局

物事は、離れすぎても、近すぎても、見えない。

適度な距離を保てたとき、漸く見えてくる。近頃そんな気分。


最近感じたこと。

あるイベントで手話通訳を依頼されたときのこと。

非番の時間帯に、たまたまそこで知り合った若い聴覚障害の男性と世間話をしていた。手話で話していたと思う。

ところが時間がたつと、相手の手話も口話も中途半端になって、話が分かりにくくなってきた。もともと口話上手な人だったんだけど、口話でもちゃんと言ってくれなくなる。でもそういう人って、彼だけじゃないんだよねぇ。

手話のモノリンガルや、故意に手話に固執する人以外、結構そういう聴覚障害の人多いと思う。口話の方が楽だという人も沢山いるし。

中には「手話を使う健聴者とどう話していいか、分からない」という人もいる。普段手話を使う健聴者と会う機会が少なければ当然そうなるだろう。

なぜ話している途中で、手話も口話も中途半端になるのか、考えてみた。

普段会社勤めをしている彼にとっては、手話のできない健聴者と話をする機会の方が、聴覚障害者と手話で話をする機会よりも、圧倒的に多いはず。普段口話で用を済ましているのだと思う。

きっと話している中で、時々彼が手話と併せて、ちょこっと口話で何か言ったとき、その声に私が反応してしまったのだろう。

すると、いつも話している口話の感覚が戻ってくる。

でもこちらが手話を使うものだから、とりあえず手話を使う。

そうすると話そうとするとき口話で伝えるのか、手話で伝えるのか、どっちもどっちになって、両方中途半端になる。

手話サークルの中には、「聴覚障害者さまに対しては、何が何でも手話を使え!」と罪悪感たっぷりに強迫観念を植えつける所がよくありますが、聴覚障害者も千差万別。相手をみて話しないとね。

手話を使うことを強制される覚えはないし。
世間話をするなら、お互い楽な方法で話したいもの。

通訳場面ではないのだから、コミュニケーション方法に固執する必要はありませんよね。

精神的支柱のないマイノリティは、常に敵を必要とする

筆者 事務局

精神的・宗教的バックボーンのないマイノリティのリーダー達は

なぜ自分達がリーダーたる資格があるのか、その根拠を同胞に説明しなくてはならない。

そのために、彼らは常に敵を必要とする。

その敵から同胞を解放したのが自分達であるという所に根拠を置こうとする。


「敵がいないと、内部がまとまらず、権力闘争がおきる」


国家であれ、民族であれ、社会的弱者の組織であれ、人数の多寡問わず、このことは共通しているようだ。

一方的な善意が障害者を殺す

筆者 事務局

支援者の一方的な善意が、障害者との間に共依存の関係を生む。


これが障害者の自立心を阻む。


平時に依存していれば、災害時にも当然依存する。

自分で自分を救う。この当たり前のことをしなくなる。

「自分のことは、できるだけ自分でやる」という意識とプライドを奪ったのはだれか?


支援者の一方的な善意が障害者を殺す。


弱者支援の美学に酔っている人間は、このことになかなか気がつけない。


人は、今現在は五体満足でも、いつ何時自分が障害者になるか分からない。

今晩にでも地震がおきて、タンスが倒れて半身不随になるかもしれないのに。

なのに災害時に自分が100%五体満足で、障害者を助けられる筈だという前提で、災害時の障害者支援を語る人たち...その「自分が100%五体満足でいられる」という確信は、一体どこからくるのか?


「自助」が基本。それがあった上での「共助」でなくては。


印鑑には、なぜ朱(あか)色のインクを使うのか

筆者 事務局

ふと思った。

印を押すとき、なぜ朱(あか)色のインクを使うのか?と。

調べてみた。




印鑑は指の代わり。

朱肉は血の代わり。



本来は、指を切って印を押す。


印を押すということは、本来それくらい覚悟の要る行為。


そう考えたら、印鑑をポンポン押せなくなった。

最近感動したこと

筆者 事務局

先日ある障害者スポーツ競技大会のスタッフをしたときに経験したこと。

大会名をあげると個人が特定されかねないので、ここでは伏せる。


参加選手は、国際大会で活躍しているようなレベルの高い選手ばかり。

選手は全国から集まっていた。本格的に競技に取り組んでいる人たち。


高校生や大学生の選手の多くは、保護者同伴で来ていた。

今回来られていたのは、ほとんど男親。

保護者が同伴する理由は、これは私の推測だが、競技審判の人たちは競技についてはプロだが、障害については、あまり知らないケースが多い。

そのため、ついつい慣れている健常者の大会のやり方でやってしまい、障害者独特の処置について、分っていながらもついつい忘れてしまうことがままある。

保護者のみなさんもその点心配で、送迎の傍ら、競技を見守りたいという思いもあって同伴しているのだろう、と思った。


保護者の皆さんは、きっと各地の大会で顔を合わせて居られるのだろう。保護者同士仲が良いように見えた。


しかし仲がいいと言っても、選手同志はライバル。

「うちの子には、少しでも上の順位に」という思いは保護者にも当然あると思う。



しかし今回私がみた保護者のみなさんは、自分の子どもだけでなく、自分の子どものライバルとなる他の選手に対しても、同じようにサポートしていた。

また選手の中には保護者がきておらず、すべて自分で対処しなくてはならない選手もいる。そうした選手に対しても、保護者同士で役割を分担してサポートしていた。(宿泊施設からの送迎や食事、道具の管理、スケジュール変更の連絡やマッサージなど)


もちろん競技自体は本人の力が全て。

しかし、それ以外は選手1人の力では手が回らない部分がある。


私は立場上、特定の選手だけが有利になるような事をしてはならないので、遠くから見るだけだったが

自分の子以外にも、分け隔てせずに声を掛けている保護者の様子をみて、美しいものを感じた。

【読書メモ】佐藤優著『日本国家の真髄』 産経新聞社より 



以下、備忘のためのメモ。文章は自分の言葉でまとめたもの。

○まえがき より

日本の外交官に足りないのは思想である。我が国家のために命を捨てる心構えができていない。

そのため外交官時代に、3つのことを行った。
1.日本の過去のインテリジェンス活動について学ぶ。陸軍中野学校の仕事が役に立った。
2.モサド、CIA、BND,SVRなどの外国のインテリジェンスのプロから死生観、仕事に対して取り組む姿勢を知る。
3.古事記、日本書紀、神皇正統記、太平記などの日本の古典を読むこと。

20世紀前半までの外交は植民地のぶんどり合戦。それが無くなったのは世界が文明化し人道的になったからではなく
植民地を自前で維持するより、独立させて貿易や外交をしたほうがコストダウンできるから。

21世紀は新しい形の帝国主義の時代に入った。

理想とするのは、いつの日か、日本に成文憲法がなくなることである(例)イギリス、イスラエル。


○序章 忘れられたテキスト より

「国体」とは国家を成り立たせる根本原理。

国体は発見するもの。構築はできない。

日本の伝統において「目に見えない憲法」が存在している。この「目に見えない憲法」こそ、わが国体である。

人知によって政治エリートが理想を記した憲法を構築するという発想は、わが国体に合致しない。

人間の理性によって社会や国家を構築できるという発想自体が左翼的思想。

左翼的思想は人間の理性を信頼し、右翼的思想は理性を尊重しながらも人間の理性には限界があると考える。

理性の限界の外においてこそ、人間の真価が現れる。

南北朝時代の北畠親房「神皇正統記」の冒頭で「大大和者神国也(おおやまとはかみのくになり)」と喝破。これこそが本物の右翼。

日本人は「言挙げをしない」ことを美徳とする文化。

南北朝の時代。北朝に偽者の三種の神器が存在し、国体に対する日本人の認識に乱れが生じていたから、北畠が「神皇正統記」を書いた。

人は健康体であれば体のことについてあれこれ言わない。体が病んでいるから体について話をする。国体についても健康なときは何も言う必要はない。
病んでいるから今議論する。

「天皇制」という言葉は、コミンテルンが作った単語。天皇制という単語では、我が国の国体を説明することはできない。
制度は廃止することができるが、国家の根幹である皇統は廃止できない。
ユダヤ・キリスト教の神が制度でないのと同じ。

(P40まで)

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いたずらな謙遜は侮りを招く

筆者 事務局

『いたずらな謙遜は侮りを招く』

その通りだと思う、反省。

若い人間が責任者になっているからといって必ずしも良いワケではないこと

筆者 事務局

先日、日本相撲協会の新理事長に元理事長の北の湖親方が再選された。

世間では、否定的な見方が多いように感じる。



最近は若い人間や女性を責任あるポストに置く事が、組織改革の象徴のように見られている。

たしかにそういう面はある。わたしもそう感じていた。

しかし、これは必ずしも良いことばかりではないと最近思う。



人間20代は、先輩達の指導を受け、揉まれながら成長する時期。

しかし組織によっては、この時期に責任のあるポストに置かれて、指導を受ける事もできず叱ってくれる人もいず、その結果

成長の機会を逸してしまう事もあるのだという事を知った。


障害者団体にも似たようなことがある。

周りの無責任なボランティアは、若い人間が役職につくと

「年長者が若い人材を育てようとしている」と好意的にみて拍手喝采だ。

しかし、いい結果を生まないケースを幾つか見てきた。


例えば、誰も役職につきたがらない組織がある。そういう中で意欲のある若い人が出てくる。

「こいつはやる気があるから、役職につけよう」
「若い人材を育てよう」

といって、選挙で役職につけてしまう。


しかし、もともと年長者に育てる意欲も能力もやる気もないから、仕事のやり方も教えてもらえないし、叱咤してくれる人も相談できる人もいない。

そうなるとどうなるか。

天狗様になるのがオチである。

先輩達は指導力はないが、批判・批評だけは、一丁前。

若い人間には「他人に仕事押し付けるだけ押しつけて、自分では何もやらない奴が大きな顔をしている」と見える。


先輩達を反面教師にできる人であればよいが、多くは先輩達と同じやり方に染まっていく。

そのような組織であれば、他のいい組織に入って研鑽を積んで、それから活動を始めた方がいい活動ができる。


特に周りの支援ボランティアが当事者団体の”怠慢”をフォローしているような場合は最悪だ。

そういう団体はこれからも「ボランティアに依存する伝統」を後輩に引き継ぐのだろう。

そんなやり方でいい人間がでてくる筈はない。

スポイルド アダルツをこれ以上増やしてどうする?

言葉が本来の意味から離れて、意味の範囲が大きくなる例

筆者 事務局

「音痴(おんち)」

もともとは、音に対する感受性が鈍く、歌が下手な様子のこと。

しかし、「音に対する感受性」→「物事に対する感受性」という意味に変化し

「方向音痴」
「機械音痴」

というように使われている。

「音」じゃないのにね。




差別する理由

差別は感情。正当化できるものではないが、抑制できるものじゃない。

「なぜ差別をするのか」という理由を問うこと自体虚しい。

差別する人間は、差別する理由がなんであれ、差別できる理由さえあれば差別するもの。


肌の色
国籍
職業
能力
学歴
貧乏
障害
容姿
性別
出自
年齢
国籍
話し方
歩き方


なんでもあり。理由はなんでもいいのだ。

相手を攻撃できれば。

相手に対して優越感さえもてれば。


相手を攻撃する理由、差別する理由が見つからなくても問題ない。

相手を差別する理由を新たに創造すればいい。


「あいつは影でこんなことをやってる」

「あいつは、前にこんなことを言っていた」


「差別されて苦しい思いをしてきた人間であれば、他の差別されている人々のことも思いやれるはず」と昔は私も思っていたがそういうひとばかりではない。

悲しみが多い人間の中には、人に自分と同じ悲しみを与えることで「つらいのはオレだけじゃない」と癒されようとする人もいる。

武田鉄也の「贈る言葉」のサビの部分を替え歌すれば

「人は悲しみを癒すために、他人(ひと)を悲しませる 動物だかーらー」

というところか。


差別の感情は、自分を苦しめるために人が自分で創り出す煩悩。

やがて他人を差別した時と同じ感情が、自分に対して向けられる。

ポリティカリーコレクト の罠

筆者 事務局


藤原正彦さんという数学者が書いた「国家の品格」を久しぶりにペラペラと眺めたら、"ポリティカリーコレクト"についての記述があった。

ポリティカリー(Politically)=政治的、道徳的
コレクト(Correct)=正しい


事件を捜査に真実を追究する側が、事実を追究することなく、「社会や世間の価値観から判断して、どちらが正しそうか」で判断してしまう。

藤原正彦さんの言葉を借りると

"ポリティカリーコレクト"="弱者こそ正義"という考えだ。

このことは福祉関係の活動をやっている人間は肝に銘じていなければならない。

"ポリティカリーコレクト"を利用できる立場だからだ。


少々変なことをしていても

「俺たちはいいことやってんだから、少しくらい大目にみろ。」
「俺たちは差別されてんだから、いう事きけ。文句あるか!?」

と、甘えがでてくる。

そうした甘えが日常化してくると、時にはとんでもない人間が、当事者の代表者の肩書きで登場するようになる(^^)

その人間が公私混同を平気でやる人間であっても、だれも攻撃できなくなる。

攻撃すれば「弱者を差別する人間」のレッテルを貼られるからだ。

支援者も行政も、だれも口が出せなくなる。

「障害者」と「健常者」が争えば、事情を良く知らない回りの人間は

「健常者が障害者を虐げている」と見る。


それがいま、日本で、私のまわりで、起こっている。


「弱者を支援すること」がいいことなら、それはヤクザや右翼団体もやってることだ。

彼らは社会で相手にされない人間達を拾い上げて飯を食わせている。中には障害者も外国人もいる。いいことしてるのだ。

"ポリティカリーコレクト"に関して、ここで一句。

障害者 名乗れる私に 敵は無し

情状酌量ということはあってしかるべきだが、それに乗じてやりたい放題の人間にはしっかり釘をささんといけません。

藤原正彦著 国家の品格 (新潮新書)


言語の習得について マルチリンガルの人って会った事ありますか?

筆者 事務局

バイリンガルは2つの言語。日本語と英語、とか。
トライリンガルは3つの言語。
4つ以上は、ポリグロットとかマルチリンガルとかいう。

マルチリンガルの人って会った事ありますか?

外国に旅行に行ったときのこと。
ニュージーランドだったかな?
船のクルーズに参加したんです。1泊2日の。

クルーズといっても、本当に小さな船で、定員20人くらい。
「深夜トイレを使用するときは水を流さない事。音がうるさいので安眠妨害になる」
というお達しがでたくらい本当に小さな船。

大きな船は日本人ばかりなのだけど、こうした小さい船には
世界中をまたにかけて旅行しているバックパッカー(またの名を貧乏旅行者という)
が多く乗っていました。

(宿に泊まるときは、バックパッカーが集まる安宿が面白い人と出会えて楽しいです)

ドイツ、イタリア、スイス、オランダ、フランスなどなど。

皆さん英語は当たり前のようにできて、さらに2つ、3つ話せる。

スイスからきたカップルは普段はドイツ語で、さらに英語、フランス語、イタリア語
も話せるといってました。

ヨーロッパってのは陸続きなのに、なんであんなに多言語なんでしょうね?フシギだ。
人為的な策略がなければもっと同じような言語でまとまっているはずと思うんだけど。

たしかに、耳の聞こえない人でも四ヶ国語話せるという人がいるくらいだから
私も頑張ればできるだろうか...。


相手に合わせて言葉を変えることをコードスイッチ(言語の切り替え)と言いますが

広い意味では、日本語と英語の切り替えも、方言と標準語の切り替えも、相手が同僚の場合と上司の場合とで言葉を切り替えるという事も、すべてコードスイッチといえます。

脳がやっていることは同じなのかも知れませんね。

日本人は英語が苦手だ、とよく言いますが、相手によって言葉を巧みに切り替える日本人は環境さえ整えば英語の習得はそんなに難しいことではないのかも知れません。

韓国の人って、どうも英語の発音こだわりますよね。日本人の英語の発音を笑う人が多い。

日本人は日本式の英語でいいと思うんだけどな。

以上、多言語に関する雑感でした。

タイヤチェーン適応サイズ 「155R13」の意味は「155/80R13」の事

筆者 事務局

この冬、障害者スポーツ関係のイベントで手伝いにいくことになりました。
車で行く予定なのですが、心配なのは雪。


昨年、大雪で除雪が追いつかずスタットレスタイヤを履いていても横滑りをするという経験をしました。
渋滞に加えての横滑りは、もう緊張しっぱなし。大変疲れました。

「転ばぬ先の杖」ということで、今年はタイヤチェーンを用意することにしました。
チェーンは横滑り防止に効果あり。


私の車は軽自動車でタイヤサイズは155/65R13。


予算の関係で新品は買えず、ネットオークションで中古を購入しました。
「中古は切れるぞ」という話をきいたことがありますが、それも運です。
新品だって切れるときは切れる。

商品の説明には「適応サイズ:155R13」とあったので、155/65R13なら大丈夫だろうと思っていました。
真ん中の数字「65」は扁平率だということは知っていましたが、その記載がないということは
どの扁平率のものでも大丈夫と思っていました。


しかしこれがとんだ早とちり。改めて数字の意味を調べてみました。


155/65R13
155:タイヤの幅[mm]
65:扁平率[%]
R13:タイヤホイールの径[inch]


扁平率はタイヤの断面高さを断面幅で割ったもの。

扁平率100で「断面の高さ」=「断面の幅」になる。

155R13の意味をネットで調べたら、155/80R13のことらしい。
昔は扁平率はみな80だったので表記しなかったんだって。

うー、まぎらわしい!!!

155/65R13と155/80R13。
計算すると、外周の長さが14センチ近く違うことが分かった。

155/80R13のものを155/65R13につけると長さが14センチ余ることになる。


ひえー!へたこいた。



「まぁ、実際タイヤにつけてみて合わなかったらネットに出そう」


と思いダメモトでタイヤにつけてみました。

スタットレスタイヤ155/65R13に、155/80R13のタイヤチェーンをつけてみた




なんかピッタリだし...


まだ路面に雪はありませんが、このチェーンで10キロほどの距離を走ってみました。
時速40キロくらいで。

ゆるい感じはない。タイヤはスタットレス。
スタットレスはノーマルよりも表面の凹凸があるので
その分外周サイズが大きいのかな?

雪が降ればこのタイヤに雪がくっついて外周の長さは見かけ上更に長くなる。
そうすればさらにチェーンをきつくでき、外れる可能性は更に低くなると見た。
よし、今年はこのチェーンにかけてみよ。

※真似される方はあくまで自己責任で。当方は責任負えません。

ということで、今回の経験で扁平率の記載のないタイヤの扁平率は80であり、どんな扁平率のものでも大丈夫というわけではないう事を学びました。

じゃんじゃん。

★タイヤチェーン 155/65R13★

tag : タイヤチェーン 扁平率

「国を守らない限り個人の自由なんかはありません」~小野田寛郎さんの話から~

戦争が終わったことを知らされずに29年間フィリピンで戦った小野田寛郎さん。


中学生のとき歴史で習った小野田さんの話は”戦争の犠牲者”というイメージが強かった。




しかし、ある時たまたまNHKのラジオドラマをきいてその印象が変わった。

【ニコニコ動画】特集オーディオドラマ[カムバック、小野田少尉]

現在もご健在だった。動画を見つけた。

平成23年8/15戦歿者追悼中央集会(小野田寛郎氏)


印象に残ったのは、12分50秒すぎから。一部を以下に抜粋。

『国を守らない限り、個人の自由なんかはありません。

よく「人権、人権」と言われても、私は「アフリカの砂漠に行ってライオンの前で”人権だ”と胸を張ってみろ」と。考えなくても結果はわかるだろう。彼ら(ライオン)には人権は通りません。

「人権」というのは、お互いに相手を尊重するという了解のもと、そういう社会、あるいはそういう国の中において初めて言える事であり、また保護される事である。他がない限り、私達は「人権」と言っても、何の効果もありません。

国という大きな集団で、外敵に対して自分達が独立しているから、その社会の中で人権が保証されているわけであります。決して1人1人が勝手に生きて言い訳ではないワケで...』



「人権」を論ずるとき、その前提となる「国家」というものについて、これまでしっかりと考えてこなかった。

「国」という形は当たり前に存在するものと考えてきたように思う。反省せねば。
事務局まで

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  • Author:H&Dエデュケーショナル事務局
  • 当会は障害や、不登校等の問題、在日外国人の子供達等マイノリティの子供達を支援する非営利組織です。平成13年から活動を開始し、これまで主に重度の聴覚障害を持つ子供達の支援活動を続けて参りました。
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